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父
俺は自分のことを出来た男だと思っていた。
一家の大黒柱として馬車馬のように働き、出世し年収は1000万を超え、娘を有名な私立大学に行かせてやることもできた。
だが違った。
俺は出来た男だったかもしれないが、出来た夫ではなかった。
妻を独りにし、労ってやれなかったのだ。
結果妻は認知症を患った。なんとなくぼんやりして過ごすことが多くなり、俺のことすらも時々忘れてしまうようだった。
昔は妻は仕事から帰ると、「あのね、今日はね」と話をしてくれたのに、パタリとしなくなった。どころか、彼女の方から話しかけてくることすらなくなった。
そこで俺は気がついた。
俺は彼女が話しかけてくれたのに、何回答えただろうか、数えられるほどしかないのではないか。
こんな話を聞いたことがある。「人は、死への恐怖を忘れるために認知症になる」と。
彼女は寂しかったのだ。
独りで辛かったに違いない。このまま独りで死んでいくのか、と考えて、苦しくて、
それで全て忘れてしまおうとしているのだ。
俺は泣いた。「男なら人前で涙を見せるな」と教わってきた俺が、妻を抱きしめ、声をあげて泣いた。
だが妻はキョトンとした顔をしたまま、「どうしたの?」とゆっくり言い、微笑むだけであった。
全ては遅過ぎたのだ、と思った。
だが、ある時転機が訪れた。
ふらりと妻が出ていってしまったのだ。俺は焦って、町内を駆け回ったが、見つからず、疲れ果て家に帰ると、妻はもう家に帰っていた。
小さな、女の子を連れて。
俺はこれまでの人生でこれほど驚いたことはなかった。誘拐でもしてしまったのか、と肝が冷えたが、女の子は逃げようとする様子もなくニコニコと菓子とジュースを手にしている。
妻にあの子は誰なのか、と尋ねても、「やだあなた、娘のこと忘れちゃったの?美波よ、娘の、美波」とコロコロ笑うだけであった。女の子の方も、驚く様子もなく「ひどいわお父さん」と笑うのだった。
女の子を愛おしそうに見つめる妻はキラキラとして、心なしか若返って見えた。今は俺のこともはっきり覚えているようだった。
どうしたことか、と思い、美波(と呼ばれた女の子)を呼び、君は誰なのか、と尋ねた。
すると、それまでニコニコと笑顔を浮かべていた女の子は、すっと真顔になりこう答えた。
「誰でもないわ。強いて言うなら、相田美波。あなたの娘」
俺は面食らって、怯みそうになるも、再び問い返す。
「でも、うちの娘の美波はもうとっくに大人のはずなんだが」
すると女の子はニコリと笑った。
「でも、今はワタシが美波だわ。帰ってこない本当の娘さんより、お母さんを幸せにしてあげられるもの。ねえ、ワタシを"美波"にしてくれない?」
その気迫に俺は圧倒された。幼い、自分の胸より低い背丈の女の子とは思えない見るものを逆らわせないような、修羅をくぐり抜けた目をしていた。
そして俺は思ってしまったのだ。
この子となら、妻の人生をもう一度やり直せるのではないか、と。
あんなにキラキラした妻をみたのは久しぶりだった。家族で、毎日笑い合って、たまにお出かけをして、美味しいご飯を囲んで楽しく家族団欒。
そんな些細で、かつて俺が妻にしてやれなかったことが今度こそ叶うのではないかと思った。
本当の美波を捨てるようで罪悪感もあったが、俺は"美波"の提案にのった。
生い先短いであろう妻の人生に、彩を与えてやりたかったのだ。
せめてもの、罪滅ぼしとして。
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