0人が本棚に入れています
本棚に追加
美波
父が足の骨を折り、入院することになったというので、数週間の休暇を取り、私は実家へ帰った。子供が幼かった頃は毎年盆と暮れに帰省していたが、子供も成長し家を出てからは足が遠のいていた。
これは罰だったのだ。認知症の母と、たった1人でその面倒を見ている父をほったらかしにしておいた親不孝な私への。
「ただいま」
合鍵で玄関の扉を開け、そう口に出すも、返事はない。わかってはいた。何しろ母は認知症なのだから。
無造作に靴を脱ぐと、久しい我が家のリビングへ向かう。私は、タンスの影に人の気配を感じたので、振り返り声をかけた。
「お母さん、ただいま」
そう声をかけて、驚いた。
そこにいたのは、母ではなく小学生かそこらの女の子だったのだ。
「…え?」
私の口から驚きの声が漏れる。
女の子の方は、一瞬バツの悪そうな顔をしたが、すぐに微笑み、
「お母さーん!お客さんだよー!」
と走っていってしまった。
お母さん?いつのまにかこの家は売りに出され、違う人が住んでいたのだろうか。
だか次の瞬間、そんな勝手な想像は、ただちに打ち砕かれることとなった。
女の子に手を引かれやってきたのは、紛れもなく自分の母であった。
「どういうこと?お母さん」
そう尋ねても、母は答えることなく、
「あら、お客さんかしら。お名前は?」
とにこにこするばかりであった。
私は困惑した。私の事を忘れてしまったのか。改めて、実母が認知症を患っているという現実が突き刺さり、寂しくなった。長らく会いにもいかなかった癖に。
次の母の言葉はこうであった。
「美波、お客さんにお茶を入れてあげて」
そう言われて、女の子はコクンと頷き、キッチンへ駆けていった。
心臓がキュッと掴まれるような感覚、喉からヒュッという息を吸う音が鳴る。
どういうことだ?
美波は、私なのに。
とにかく、状況が飲み込めなかった。母はちっとも話にならないし、父は今電話できるような状況ではない。こうなっては、女の子本人に話を聞く必要があるが、女の子は母の後ろをピッタリくっついて離れない。
「あなたはだあれ?」と声をかけても返事をすることはなく、母が「うちの娘なんです。この春から小学4年生です」とにこにこ答えるのであった。
母はもう70過ぎで、私ももう50過ぎだ。50過ぎて、私に小学生の妹がいるのもあり得ないし、大体娘2人に同じ名前をつけるはずがない。時間をかけ、私はゆっくり現実を飲み込んだ。
母は"私"のことを忘れているのではない。
私が"大人になったこと"を忘れているのだ。
そして、この女の子を自分の娘、"美波"だと思っているのだ。
受け入れ難い事実に頭はぼんやりしていたが、やけにはっきりした視界が問題の女の子を捉える。
女の子は満面の笑みでこちらを見ていたが、その目は笑っていなかった。
最初のコメントを投稿しよう!