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それから僕たちは、シェイクを飲んで、綿あめを買った。その段階になってから小遣いが足りないことに気が付き、買えた綿あめは一個だけ。
「ごめん。男の僕が奢ってもらうなんて」
「なあに、いいってことですよ」
野村さんはぺろりと綿あめを舐めた後、ほい、とこちらに差し出してくる。そうして一個の綿あめを交互に舐め合った。
僕は彼女が舐めた場所を丁寧に避けながら舌を這わせていたのだが、彼女は気にしている素振りもない。僕が舐めたあとだろうとお構いなしだ。
境目がわからなくなり、途中から諦めることにした。
「意外と大胆なんだね」
「なんのはなし?」
「いやあ、なんでも」
気にしてないのなら、何も言うまい。というか、こちらから指摘するのも照れくさ過ぎる。
快晴だった青空がオレンジ色に染まり、夕闇ひそかに迫るころ。公園内を一周し終えた僕たちは、最初に出会った案内板の前に戻ってきていた。
「遅くなって来たし、もうそろそろ帰ろうか」
「うん。今日は、予行演習に付き合ってくれて、どうもありがとうね」
「いや、どうせ暇だったし。というか、わりと楽しかった」
楽しかった、と改めて口にした瞬間、自分の中で何かが変わった気がした。思えばこんなに長く女の子と話をしたこともなかった。
クラスにいる、あまり目立たない女の子。
これまで異性として意識したことも無かったが、半日一緒に過ごしただけで、彼女のいいところがたくさん見つかった気がする。
思いのほか明るくて。真面目で一生懸命で。手先が器用で、なにより──可愛い。
夕陽があたってほんのりと染まった頬。
恥ずかしそうな顔で俯いた彼女の姿が、どこか儚げに見えた。まるで、目を離せば今にも消えてしまいそうな、そんな希薄な存在感。色白で、細身だからそう感じてしまうのか。
「野村さんもさ、来週の告白頑張ってね」
成功しなかったらいいのに……なんて、考えてしまう自分のことが後ろめたい。あれ、でも、まだ告白の練習はしていないよね? でもまあいいか。僕がそこまで義理立てすることでもない。
じゃあ、と言って立ち去ろうとした僕の袖口を、彼女がぎゅっと握った。
「違うの」
「違うって、なにが」
「告白、来週じゃないの。ごめん。なかなか言い出す勇気がなくて、一個だけ嘘ついてた」
「嘘って? どういう意味……?」
握っていた袖口を彼女が解放すると、僕たちは自然と向き合う恰好になった。
おほん、と一つ咳払いをしたのち、意を決したように彼女が顔を上げる。強くなった西日をバックに、彼女の顔がシルエットとなる。力強い光を放つ双眸が、僕の顔をまっすぐ見据えた。
蛇に睨まれた蛙のように、僕は瞳を逸らすことができない。
「ではこれから、本番を始めます」
「野村さん、何言って……」
「岡本くん。私たちが最初に話をした日のこと、覚えてる?」
「一番最初? いや……覚えてない」
「まあ、それも無理はないかな。一年の時、クラスが別々だったから」
言われてみると、確かにそうだ。二年~三年と同じクラスだったから失念していたけど、一年の時は野村さんと違うクラスだった。
「運動会でね、借り物競争があったの、覚えてる?」
「借り物競争……。あ、思い出した。確か──」
「そう。岡本くんが、見学していた私の手を取って、そのままゴールしたの。紙に書かれていた文字が、『メガネの似合う女の子』」
そっか……。確かにそんなこともあった。
「それが凄く心に残っているというか、嬉しかったんだよ。──私、趣味の読書が祟ったのか、小学生のころからメガネを掛けていたんだよね。そのせいで、何となく暗いってイメージをもたれがちだったから──まあ、強ち間違いでもないんだけど」
そう言って、「えへへ」と野村さんが自虐的に笑う。
「だからさ、やめることにしたの」
「……」
「暗いというイメージを払拭するため、コンタクトにしようかな~って悩んでいたのを、やめたの」
「野村さん……」
「それから、君の背中を追い掛ける日々が始まった。一見不愛想だけど、本当は優しいんだな、とか、友だちとか確かに少ないけれど、他人に媚びたりなんてしないし、自分なりの信念というのを、しっかり持ってるんだな、とか気づき始めたら、もう、膨れ上がっていく想いを止めることができなくなっていた。黙って見ているだけの毎日は、とても辛くて切なかったけれど、同時に楽しくて充実していた。だからこの一年間は、私にとって大切な想い出」
じゃ、言うね。そう言って野村さんが落としていた視線を上げたとき、ちりん、という鈴の音が鳴った。彼女が肩にかけているバッグの脇で、小さな鈴がついた、赤くて四角い物が揺れていた。
「それは……?」
「あっ、見られちゃったか。これはね、今年の初詣の時に買った、恋愛成就のお守り。今日、この日の為に、ずっと肌身離さず持っていたんだよ」
お守りを指で暫し弄んだのち、「おほん」と彼女はもう一度咳払いをする。
「ずっと前から好きでした。私と、付き合ってください」
顔を伏せると、真っすぐ右手を差し伸べてくる。
なんだろう、これは。夢でも見ているんだろうか。
十七年間恋人がいなかった冴えない僕に、好きだと告げてくる女の子。
学力は中の上だけど、運動神経は良くないし、優柔不断だと揶揄されている僕を、それでも好きだと言ってくれる女の子。
この機会を逸したら、一生恋人なんてできないかも?
そんな感じの不安が首をもたげてくるし、下心ももちろんあった。でも、たった一日かもしれないけれど、クラスで目立たない存在だった野村さんとこうして過ごし、その実直さやひたむきさに触れていくうちに、僕も確かに彼女のことが好きになっていた。
いや、もしかしたら、まだ自分でもよくわかっていないのかもしれないけれど、胸が締め付けられるように苦しくなるこの感情に名前を付けるとしたら。
きっとこれが、『恋』なんだと思う。
だから──。
「勇気をだして、告白してくれてありがとう。まだ、自分の気持ちを上手く整理できていないけれど、先ずは友だちからお願いします」
両手で、彼女の右手をしっかりと握る。
野村さんが驚いたように顔を上げて、とたんに、堰を切ったように彼女の瞳から涙が溢れだした。
「わわ、泣かないでよ」
「ごめん。なんだかあまりにも嬉しくて。ようやく私の初恋、終わったんだなーって思って」
野村さんは細い指先で涙を拭ったのち、よく通る声でこう宣言した。
「目、閉じてくれる?」
「え、今?」
「そう、今」
「なんで」
「いいから」
観念して僕が目を閉じると、彼女の囁くような声が聞こえてくる。辺りの喧噪によって掻き消されようなほどの、小さな声で。
「これから宜しくお願いします、と言いたいところですが、もう一つだけ嘘をついてました。本当に、ごめんなさい。でも、最後に一つだけ、私の我がままを許してください」
次の瞬間、僕の唇を柔らかいものが塞いだ。
ふっくらとした感触だった。
しっとりとした、瑞々しい感触だった。
触れ合った唇から彼女の熱が伝わってきて、でも、次第にその熱が失われていく。鼻先で感じていた彼女の息遣いまでもが、遠くなっていく感覚が過る。
「大好き。これで私の未練は全部消えた。君のこと、絶対に忘れないから、私のこともわすれな……で……ね……?」
耳元で聞こえた彼女の囁きが涙混じりになると同時に、途切れ途切れに聞こえ始める。まるで、携帯で通話しているさなかに、電波が悪くなった時のように。
なあ、もう目を開けてもいいだろ?
そう思って目を開けると、もう、彼女の姿は何処にもなかった。
ちりん、と鈴の音が鳴って、夜の帳が下りた公園に寂しく響いた。
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