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扉を開け入った先の廊下らしき場所は、ひとけが無く暗かった。男はソォソの手を縛っていた紐を外したが、掴む手の力は緩めなかった。「行くぞ」そう短く告げられ、連れられるまま幾つかの角を曲がり、湯気が立ち込める雑多な調理場を抜ける。いったん水場に出てから使用人の住居を渡った。外から見た通り、いやそれ以上に中は広かった。途中でかなりの人間とすれ違ったが、こんなことは良くあるのか無理やり歩かされている青年が通ろうと誰も驚きはしなかった。
ソォソはつのる不安に息をひそめながら、きょろきょろと初めて見るものばかりの周囲を見回す。
男が重厚な造りの一枚の扉を押し開いた。
ずっと微かに聞こえていた音楽が、はっきりと輪郭をあらわして耳に届く。
壁に明かりが据えつけられていたが、絞られていて最初は全容が見えなかった。しかしおそらくそこは、大きなホールの入り口だった。
二階ぶんが吹き抜けになっている天井は高く、豪奢なシャンデリアが左右に二灯ずつ吊り下げられていて、方々に光の筋を落としている。両翼に伸びる階段の踊り場では楽団が優雅にワルツを奏でていた。フロアにいくつも置かれた凝った作りのベンチは生けられた花々で適度に目隠しをされ、人々が思い思いに談笑している。
まるでおとぎ話か夢の中のように華麗な場所だった。
しかし飾り立てた人々に目をやったソォソは、何人かがまとうおかしな衣装に気がついて、ぎくりとした。
異国風の透けるズボンだけをまとった青年や、ゆったりしたローブを大胆にはだけているご婦人、コルセットと膨らんだズボンだけを身に着けた山高帽のブーツの紳士……その姿にはつい先ほどひどい目にあったことを思い出してぞっと産毛が逆立つ。ソォソには彼らはとても正気だとは思えなかった。宝石や花で飾っているのに露出が多すぎるのだ。あれでは道も歩けない。
――なぜあんな姿で……?
困惑したままフロアの端を歩き、反対の階段をのぼるようにとうながされる。目的地はもっと上の階らしかった。
この場所は一体何なのだろう?
とまどう彼の心臓は、にわかに早鐘のように鳴り出した。
ここはとても良くない場所なのかもしれない。のん気に連れられるまま来たが、入る前に死ぬ気で逃げなければならなかったんじゃないのか? 今ならまだ間に合うか?
考えがまとまらないまま、最上階の立派な扉の前でとうとう男は立ち止まった。壺を抱えたまま器用に抑えたノックで部屋の中に問いかける。
「お館様、例のものを回収いたしました」
「入れ」
中から短くこたえた声に、ソォソの不安は急に臨界点を越えた。
――冗談じゃない! このままではきっと帰れなくなる。僕はまだ何も手に入れていないっていうのに!
扉が開いたことに気をとられた男の隙をついて、ソォソは力いっぱい体をひねった。
緩んだ男の手から逃れると、素早く掴みかかって壺を奪いかえす。逃げ出そうと振りむいたそのとき、背中に重い衝撃を受けて、あっという間に床に這いつくばらされた。
無駄のない動きでソォソを引き倒した影の男の膝が、ぎりっと容赦なく背を圧迫する。頭も床に押しつけられてソォソは完全に身動きがとれなくなった。
背骨が折られそうな恐怖にうめき声をもらす。その時、床の上を転がっていく壺が目に入った。投げ出された衝撃で蓋の外れた壺は、その口から貴重な中身をこぼしながら転がっていく。部屋中に何ともいえず芳醇な甘い香りが広がった。
背筋が凍りつく光景だった。
――だめだ! すべてこぼれてしまったらもう集められない。あれが無ければ薬を手に入れられない!!
ソォソは緻密に織られた敷物に爪を立て、立ちあがろうと必死にもがいた。
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