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アラベスク第一番
水川友花は、公式試合で初めてトリプルアクセルを成功させた、日本人女子フィギュアスケート選手だ。
それもグランプリファイナルの大舞台だというから、その強心臓には恐れ入る。
当時のことはよく覚えていない。私はまだ、よちよち歩きの二歳児だった。
液晶テレビの向こう。世界の果てみたいな寒い国の氷の上で、彼女は見事な三回転半ジャンプを決めた。
その瞬間、日本中が湧きたった。地方の小さなアイスリンクを経営する両親は勢いよく抱き合い、そこからはもう「ユカちゃん、頑張れ!」の絶叫リピート。両親に揉みくちゃにされながら、私は暢気にけらけらと笑っていた。らしい。
「世界初のトリプルアクセルを前に、暢気に笑っていられた日本人はあんたくらいよ」
当時のことを回顧して、母は言う。当たり前だ。二歳児にトリプルアクセルのすごさがわかるはずもない。そもそも、この世にフィギュアスケートという競技が存在することすら知らなかった。
当時のことはよく覚えていない。それでも、液晶画面の中で、くるくると楽しげに踊る水川友花のことは、おぼろな記憶の中でぼんやりと色づいている。いや、水川友花の伝説のフリープログラムの様子を、両親から繰り返し熱く語られることで、自分の記憶だと勘違いしているのかも。
トリプルアクセルのすごさがわからない二歳児の私は、水川選手がスピンをするたびに両手を叩いてはしゃいでいた。らしい。たった一人だけの氷の舞台。凛と美しい少女が、くるくる回る。この世の誰にも真似できない強さで。
「きれい。おはな、おはな」
レイバックスピンを花に例える二歳児は、世界中を探してもあんただけよ。
当時のことを思い出して、いまだに母親は私をからかう。そう言われても、私は当時のことを覚えていないのだ。
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