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1.新人研修
ドドドドっと地響きを上げ迫りくる足音に内蔵まで揺さぶられながら、おれは猛然と走っていた。
「ううっ……はあ……はあ……!」
どうして。なぜこうなった。頭が混乱を極め、思わず目尻に涙が滲む。
こんなはずじゃなかった。
もっと普通の会社に就職して。
ごくありふれた平凡なサラリーマンになって。
そこそこの収入を得ながらなんとなく暮らす。
それが目下の目標だったはずなのに。
「ショウ。この先の丘で拾います。そこまで頑張ってください」
上空から声をかけられたところで、おれには当然答える余裕などなく。
朦朧とする意識の中、懸命に走り続けた。
三ヶ月前。おれ、相平翔はニートだった。大学へ行かず、アルバイトもせず。なんとなく日々を過ごしていた。
特に身体や精神に支障があったわけではない。ただやりたいことだけがなかったのだ。
寝て起きてカップラーメンを啜って、くだらない動画を見ながらゲラゲラ笑い、また眠る。なんの生産性もない。けれど居心地の良い生活。
親の仕送りを頼って暮らすそんな日々が数ヵ月過ぎた頃。親父が事故に遭って入院したという知らせが実家から届いた。
幸い命に別状は無かった。が、この一件で帰省した際に、大学をサボっていたことが家族にバレてしまったのである。
目を剥いて怒ったのは五つ上の姉だ。なにかと甘い両親と違い、昔から姉はおれに厳しかった。
大学へ通い直すか、就職するか。
おれの胸ぐらを掴み、彼女は選択を迫ってきた。
正直に言えば、なにもしたくないというのが本音だった。子どもの頃から勉強は嫌いだったし、大学へも通う意味が見出せずに行くのをやめた。かといって働きたいかと聞かれたら……もちろんそんなわけはなく。
つまるところ、なにもしたくない以外の回答がなかったのだ。
けれども凄んでいる姉を前にそんなことを口にすれば、無事では済まないことは明白で。
ジリ、と後ずさったところで襟元を掴んでいた姉の手にグッと力がこもる。
ああ、これは逃げられない。
「し……就職、します」
観念したおれは、絞り出すような声で宣言した。
頭上で二つの太陽がギラギラと輝いている。
リザさん曰く、この国の季節はいま夏らしい。日本ほど湿気は高くないが、それでも噴きだす汗が止まらないほど気温が高かった。
もっとも。汗が止まらない要因は暑さだけではなかったが。
はあ、はあ、と肩で息をしながらおれは草原に倒れ込む。本気で走ったのなんていつぶりだろう。三ヶ月前までニートだったわりには動けたほうなんじゃないだろうか。
パラパラと回るプロペラの音がゆるやかに収まり、フライングビークルの機体から赤髪の女性が現れる。
彼女はリザ・リットナー。冒険者ギルド【アーベントイア】の支配人で、おれの上司だ。
「お疲れさまです」
という言葉とともに、リザさんはキンキンに冷えたウォーターボトルを投げてよこしてきた。体を起こしてなんとかボトルを胸で受け止める。蓋を開けて口元に運びながら、
「見積もり、終わったんですか?」
と尋ねると
「ええ。おかげさまで」
リザさんは頷いて答え、おれの横に腰をおろした。
「ワイルドボア25頭。現状の被害範囲は約45ノクトール四方の田畑。彼らの体格・スピードを考慮に加えてランクはⅡ。請求金額は24000ジル……といったところでしょうか」
十センチ程の小型スコープを覗きこみ、リザさんが計測結果を読み上げる。
彼女の持っているスコープは、ツェツィーリアさんお手製の魔道具のひとつ。このスコープで魔物のステータスを計測し、見積もりを出してから正式にクライアントと契約を結ぶことになる。
先程までおれがワイルドボアに追いかけられて死に物狂いで走っていたのは、このスコープで計測するためだったのだ。
就職するまではまさか冒険者ギルドの運営スタッフの仕事がこれほど過酷なものだとは思わなかった。実際に危険な思いをして魔物と戦うのは冒険者たちなのだから、裏方の仕事は地味で楽なものを想像するだろう。しかし。
「いい加減な見積もりを出して、いたずらに冒険者たちを危険にさらすわけにはいきません。冒険者たちの命をお預かりしている以上、私たちも責任を果たさねばならないのです」
というのがリザさんの信条だった。
リザさんは何事に対しても真摯に取り組む人だ。短い付き合いながら彼女のそういうところをおれは尊敬している。
だがしかし、まだまだおれは彼女の境地に至れそうもない。
今みたいに少しでも大変な作業を終えた直後は、もう嫌だ、働きたくないとすぐに気持ちがくじけてしまう。くじけたところで、リザさんの元を離れても行くあてなどないし、ただただ右も左も分からない異世界で路頭に迷うだけなのだけど。
異世界。そう、おれはいまレナヴィンと呼ばれる異世界にいる。
就職活動中に突然異世界へ飛ばされたおれは、冒険者ギルド【アーベントイア】を営むリザさんと出会い、彼女の元に就職したのだ。
……一応、言っておくが、べつに説明を端折ったわけではない。異世界に来てしまった原因が分からない今、話せるのはこれだけというだけで。
魔物や魔法の存在する嘘みたいな世界に突如飛ばされて混乱するおれを、リザさんは助けてくれたのである。
「お疲れさま。大変だったでしょう」
依頼人と契約を取り交わして【アーベントイア】に戻ると、ツェツィーリアさんが出迎えてくれた。
ツェツィーリアさんはリザさんの親友だ。
時折こうして手伝いに来てくれているが、彼女の本職は発明家。先程の計測スコープをはじめ、冒険者ギルドを営むにあたって現在活用されている魔導具は、全て彼女の発明品である。
おれが腕に付けている金のブレスレットも彼女の発明のひとつだ。
一見なんの変哲も無いブレスレットだが、なんと通訳翻訳機能が備わっている。このブレスレットのおかげで、リザさんやツェツィーリアさんといった異世界の人たちと問題なく意思疎通ができるのである。
レナヴィンにやってきた直後はそれはもう大変だった。
気付けば見知らぬ土地にいて。突然、目の前に言葉の通じない人が立っていたのだから。
目の前にいた女性、リザさんはまだ良かった。彼女は見た目が人間だった為、日本語がわからない外国の人という程度の印象で、大きな混乱なく受け入れられた。
問題はリザさんの背後から現れたツェツィーリアさんだ。彼女が体長ニメートルを越す二足歩行の竜だったものだから、情けないことに、おれは出会い頭に卒倒してしまったのである。
目を覚ますと、休憩室のベッドの上にいて。腕にはすでにツェツィーリアさんお手製のブレスレットがはめられていた。
「私の言葉……分かりますか?」
リザさんの第一声は今でも忘れられない。
「は、はい。分かる……分かります……」
言葉が通じて、意思疎通ができるということの素晴らしさを、おれはこの時痛感したのである。
一般的に、異世界にやってきた物語の主人公というものは、なんだかんだで冒険の旅に出るものであるように思う。まあ、そうでなければ物語にならないから、冒険を選ぶ者だからこそ、物語の主人公と呼べるのだろう。
だが、おれは冒険者にならなかった。なれると思わなかったし、なろうともしなかった。
異世界にトリップした時になんらかの特別なパワーや特殊なスキルを身に付いていたとしたら話はちがったかもしれないが、残念ながらおれはそのパターンには当てはまらなかったようだ。
真新しいスーツの袖口からみえる手首は相変わらず細く頼りない。これといって自分の内側から力がみなぎってくる気配もない。等身大の平凡なニートとして、異世界に迷い込んでしまっていたのである。
「いったいどうすれば良いんだよ……」
途方に暮れていると、リザさんが
「もし行くあてがないなら、私の元で働いてみませんか?」
と声をかけてくれた。驚き、彼女のほうを見やると、
「もちろん無理にとはいいません。ただ、この世界で暮らすにしろ、元の世界へ帰る方法を探すにしろ、なにかと資金は要りようでしょうから」
就職口を探されるようでしたら、ぜひ。
彼女の提案に、ふと、説教する姉の姿が脳裏を過ぎった。
『大学へ行かないなら働きなさい!』
いつまでもぷらぷらと遊んで暮らすわけにはいかないことはわかっていた。だから観念して就職活動を始めた。まさか就職活動第一日目の就業先候補が、異世界の冒険者ギルドになるとは思いもしなかったけれど。彼女の提案を受け入れさえすれば、一応、姉との約束を果たしたことになるのではないか。
とはいえ即答するわけにもいかず、おれが返答を考えあぐねていると、リザさんはサイドテーブルの上に羊皮紙を取り出して、さらさらとなにかをしたため、
「こちらの雇用条件を確認頂き、了承頂けるようであればサインを」
と、羽ペンとともに羊皮紙を差し出してきた。
促されるまま紙面に目を通してみる。が、書かれている文字が読めない。おれには不可思議な線や形の羅列にしか見えなかったのだ。
「リザ。ブレスレットは言葉の翻訳は出来るけれど、文字の翻訳にはまだ対応していないわ」
今後改良が必要ね、と呟くツェツィーリアさんに、リザさんはあっと小さな声を上げて、
「失礼いたしました」
と顔を赤らめた。先程までの淑やかな雰囲気から一変した素直な反応に面食らう。
「では、文面を読み上げましょう」
彼女は気を取り直すように、こほんとひとつ咳払いをした。
一連の様子をぼんやりと見つめ続けていると、いぶかしんでいるように見えたのか、
「ご心配なく。私のイヤリングで音声記録もとりますので、契約違反だと感じた場合は、遠慮なくおっしゃってください」
とリザさんは補足した。
彼女が提示した雇用条件は次のようなものだった。
「冒険者ギルド【アーベントイア】の運営における接客と営業が主な業務となります。営業は現地調査、フィールドワークを含みます。契約はひと月ごとの更新。休日はソーレとルーナの日及び建国記念日等々の祝祭日。給与支給は週ごと。対応した業務に応じて給与を算出しますが、業務量が少なかった週でも最低40000ジルの支給を保証。その他働きに応じた賞与あり。食事と住まいも提供致します」
いかがでしょうか。
元の世界でだって一度も働いたことがないのだから、条件の良し悪しは分からない。この世界独自の言葉がところどころ混ざっているから尚更だ。
高校を卒業してすぐに就職した同級生たちの疲れきった表情が頭に過ぎる。いつかおれも働いたらあんな覇気の無い顔になるんだろうかと思うと恐ろしかった。
けれどここで働かないことを選んだとして、どうなるというのだろう。この世界にはおれを養ってくれる家族はいないんだ。
ごくりと唾を飲み込み、覚悟を決める。
大学へ行きたくない、働きたくもない。もしどうしても働かなければならないというのならできるだけ楽な仕事がしたい。
そんなおれが人生ではじめて就いた仕事は、冒険者ギルド支配人助手だった。
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