1.姉

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 ひとり暮らしを始めてからはなるべく節約するように心がけていた。徐々に給料も上がってはいたがこれから先ずっと一人で生きていくには貯金はできるだけしておきたい。そんな私の唯一の贅沢が週末のカフェ通いだ。  きっかけは三十歳になったばかりのある日曜日。元々私は外食するのが苦手で一人でカフェに立ち寄ることなど考えたこともなかった。だが、その日駅前で買い物を終え帰ろうとしていた私は突然の夕立に足止めされてしまう。雨に濡れたまま空を見上げるが当分止む気配がない。傘を持たずに出かけていた私は途方に暮れた。仕方なく雨宿りしようと立ち寄ったのが駅近くにあるその小さなカフェだった。 「いらっしゃい。ずいぶん濡れちゃいましたね。これ、よかったら使ってください」  カフェのマスターは店に入った私を見るなりそう言ってタオルを渡してくれた。腰ぐらいまで伸びた私の髪から水滴が落ちる。しまった、と思った。これではお店の床が濡れてしまう。 「あ、すみません。お店が濡れちゃいますね。申し訳ないです」  そう言って慌てて店の外に出ようとする私をマスターは引き止めた。 「いえいえ、そんなの気にしないでください。それより風邪引いちゃいますよ。ほら、このタオル使ってください。何か温かいものでも淹れましょうか」  私は戸惑いつつも頷き、タオルを受け取ると濡れた髪や手を拭いた。 「ありがとうございます。ではホットコーヒーを」  何だか落ち着く感じのカフェだった。ゆったりとしたソファに身を委ね豊かなコーヒーの香りに包まれていると随分リラックスできる。 「はい、どうぞ。あとこれ、よろしければ」  マスターは私の前に淹れたてのコーヒーと小さなパウンドケーキを置いた。 「あ、あの……」  サービスですよ、と言いマスターは片目を瞑る。笑顔の素敵な男性だった。翌週、再びそのカフェを訪れクリーニングに出したタオルを渡すとマスターは驚いていた。 「いやぁ、何だかかえって申し訳なかったねぇ。そんなクリーニングに出してもらうようなものでもなかったのに。さ、どうぞ座って座って」  それ以来私は毎週のようにこのカフェを訪れ、本を読んだりマスターとの会話を楽しむようになった。自身も読書家だという四十代半ばぐらいのマスターとは読んでいる本の話でよく盛り上がる。彼、吉崎(よしざき)さんは一度結婚に失敗しており今は独身らしい。年齢は自分よりも十歳以上年上だが本の趣味が同じだったせいか年の差を感じたことはあまりない。 「美恵ちゃん痩せすぎだよ、もっと食べな」  昼時に立ち寄るとそう言っていつも山盛りのサンドイッチを作ってくれる。私は食が細いせいかなかなか太れなかった。体が細い分下膨れの顔が目立つのがすごく嫌だったのだがどうにも太れない。それでもマスターの作るサンドイッチはとても美味しくて週末はいつもこのカフェでランチをしコーヒーを飲みマスターとの会話を楽しむのだった。 (素敵な男性だな)  すらりとした長身で優しい笑顔の彼を目当てに訪れる客も多そうだ。そんな彼から「美恵ちゃん」と話しかけられるのは嬉しかった。もちろん何かを期待しているわけではない。私はただのお客。それでも彼と話していると何だかドキドキした。これが恋というものなのだろうか。よくわからない。私は今まで恋などしたことがない。恋愛小説を読み恋愛に憧れはしてもそれはあくまでお話の中だけのこと、そう思っていた。
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