164人が本棚に入れています
本棚に追加
「……沢。……相沢?」
遠くで、誰かがわたしを呼んでいた。
その声は聞き慣れたもので、耳に落ち着く、優しい響きを持ったものだ。
……でも、それはきっと彼じゃない。
だって彼は、わたしのことを下の名前で “若菜” と呼ぶのだから……
ぼんやりと思いふけっていたわたしは、
「………相沢!」
ことさら大きく呼ばれて、突然意識を引き戻された。
「え………?」
「え?じゃないよ。どうしたの?具合でも悪い?」
声のする隣を見上げると、長身の男性がわたしを心配そうに見つめていた。
そして、電車のつり革を握っていたその手をこちらにゆっくり伸ばしてくるのが目に入り、わたしは慌てて首を振った。
「あ…、ごめん、ちょっと考えごとしてただけだから……」
「考えごと?本当に大丈夫?体調悪いとかじゃなくて?」
顔色はよくないよ?
返事したわたしを、なおも心配そうに覗きこんでくる彼。
優しい彼は、ただの同僚のわたしにまで、こんな風に過保護に振る舞うところがあった。
同期入社でたまたま配属先が同じだっただけなのに、まるで保護者のように見えることもあるくらいで。
背が高く、王子様のようだと評判の外見だけでも注目を集めていた彼は、そのうえ明るく優しい性格で仕事もできるものだから、常に女性社員からの視線を浴びている。
そんな彼と仕事柄一緒にいることが多いわたしは、彼女達の噂に度々キャストインされることもあったのだが、彼がわたしに対していつも保護者のように接するものだから、次第に登場回数が減っていったほどなのだ。
つまり、彼が今みたいにわたしの様子を気にかけるのは日常のことなので、わたしは笑顔を見せて安心してもらうことにしたのである。
いつもそうしてるように。
「本当に大丈夫。ありがとう、成瀬くん」
そう言うと、彼はやっと納得したようで、「だったらいいけど……」と、またつり革を握り直した。
そしてそのあとの話題は、これから二人で向かう仕事の内容に移っていったのだった。
最初のコメントを投稿しよう!