0人が本棚に入れています
本棚に追加
昔 東京の片隅で 第9話 三年が過ぎて
■
あれから三年が過ぎた。
男は相変わらず、都内でタクシーを運転している。
ある雨の夜、男が日暮里駅で客待ちをしていると、ひとりの老婦人がクルマに乗り込んできた。
「どちらまで」
男が訊ねるとその老婦人は、
「葛飾区の新亀町までお願いします」とだけ答えた。
男は老婦人がシートに座るのを待って、後部ドアを閉め、クルマを発進させる。
男が考えたルートは、日暮里駅前から明治通りと交差する宮地ロータリーを抜け、尾竹橋通リを経由して環状七号線に出るというものだった。
■
ハンドルを操作しながら男は、いつものようにルームミラー越しにその乗客を観察する。その老婦人は、80代前半だろうか。軽くウエーブをかけた白髪と細い金縁のメガネが、どこか上品さを感じさせる。
運転に集中していると、その老婦人が話しかけてきた。
「運転手さん。家族はいらっしゃるの」
突然の質問に戸惑いながらも、男は答えた。
「三年前までは、ルナというネコと暮らしていました」
「でも今は、ひとりです」
老婦人はややあって、
「まあ、そうだったんですか」
「実は運転手さんが、わたしの主人に似てたもんだから」
男は少し考えてから、老婦人に訊いてみた。
「そのご主人は今、どうなさっているんですか」
その質問に、老婦人の返事はなかった。
男はちょっとまずいことを訊いたかな、と思って黙った。
雨の幹線道路。水しぶきの音が、断続的に車内に飛び込んでくる。押さえ込んだエンジン音。規則的なワイパーの作動音。それ以外は車内は、静けさに包まれている。
■
しばらく会話が途切れたあと、また老婦人が話しかけてきた。
「三年前、とおっしゃいましたね。そのネコちゃん、今、どうしてるんですの」
クルマは雨の尾竹橋通りを走っている。男は運転に注意を払いながら答えた。
「腎不全が原因で、三年前、虹の橋を渡りました」
老婦人はまた、黙った。何かを考えているようだった。
「元気な頃は、体重が4.5kgもあったんですよ」
「でも最期は2kgに激やせしてました」
男が答えると、老婦人はまぁ、と驚いて、
「それで、運転手さん。臨終のときは、看取ってあげられたんですの」
男は力なく答えた。
「それが、できなかったんですよ」
男はそこまで言って、次の言葉を吞んだ。
その辺りのことを、どう説明すればいいのか、言葉を整理する必要があったからだ。そして男は、言葉を選びながら、老婦人に説明した。
「旅立つ一週間くらい前から、食事をまったく摂らなくなりました」
「水しか飲まなくなって、動きもヨロヨロして」
「その段階でわたしは、心の準備をしました」
男は断片的に、その前日までの状況を話した。
「その日の朝、家を出るまでは何とか生きていたんですが」
「気になってお昼に戻ってみると、ネコは虹の橋に旅だったあとでした」
■
虹の橋を渡る、とは、どういうことなのだろうか。
それは1992年頃、アメリカの愛犬家が書いた一編の散文詩が元になっている。
その散文詩を要約すると、こうだ。
この世を去ったペットたちは、天国の手前の草原行き、そこで仲間たちと楽しく遊びまわっている。しかしたったひとつ気がかりなのは、一緒に暮らしていた飼い主の事だ。月日は流れ、やがてペットは草原に歩いてくる飼い主を見つける。そのペットは全力で飼い主の元に駆けていき、その飼い主に抱きつき、キスをする。そうしてペットは飼い主と再会し、一緒に虹の橋を渡っていく。というものだ。
■
男はその旅立ちの日を思う出したのだろう。声が少し上ずっているのだ。
クルマのタイヤが雨水を撥ねた。その音が何かのノイズのように、車内に入り込んだ。
男はハンドルを操作しながら、心にあの日を思い描く。
ルナ。ルナ。その呼びかけにルナは何の反応も示さず、体温を失くしたその身体は、不自然に硬直したままだった。
認めたくない現実。信じたくない光景。
そのガリガリに痩せた身体をバスタオルで包み、男はそのとき、声を殺して泣き続けたのだ。
嗚咽がこみ上げてくる。目からはとめどなく涙があふれ、その涙が腕の中で横たわる愛猫ルナの身体を朧にする。
苦しかっただろうな。つらかっただろうな。
でも言葉を話せないおまえは、最後まで甘えようとして、力なく擦りそう仕草をみせていた。頭を撫でであげるとルナは、うっとりと目を閉じてその感触に浸っていたっけな。
■
信号待ちでクルマが停車するたび男は、ルームミラー越しに老婦人の顔を見た。老婦人は何も語らず、ミラーを通して男の目を見ている。
「たぶん」
やがて老婦人は、ひとり言のようにつぶやいた。
「そのネコちゃんも、さぞ心残りがあったんでしょうね」
「だって、さよならが言えなかったんですもの」
その言葉に男は返事をせず、しばし愛猫との思い出に心をさまよわせる。
「もう忘れられましたか」
「いや、無理でしょう」
老婦人の質問に、今度は男は言下に答えた。
「忘れられないです。三年経った今でも」
「だって、十三年も一緒に暮らしていたんですから」
男は言葉を切ってから、
「だから忘れるのにも、十三年かかる気がするんですよ」。
■
男は愛猫ルナとの日々を思った。
あいつはほんとうに、甘えん坊だった。仕事から帰ってくると、身体をくねらせて玄関まで飛んできた。男が食事のときはいつの間にか膝の上に乗り、目を細めて丸くなっていた。そして寝るときは、待ってたかのように一緒の布団に潜り込んできて、うるさいほど喉を鳴らすのだった。ときにはあのザラザラした舌で男の腕を飽きることなく舐めていたこともあったのだ。
■
男はクルマを走らせながら、そばしそんなことを回想していた。
クルマが環状七号線に入ると、雨が一段と激しくなった。ワイパーがせわしなくその雨を左右に弾き飛ばす。
クルマは大和田陸橋を右折して、新亀町に入った。
周辺は閑静な住宅地だ。さらにこんな雨の夜、さすが人っ子ひとり歩いていない。街路灯に照らし出された雨が、無数の縦じま模様で流れている。
「お客さん。この辺りが新亀町ですが、どこまで行けばいいですか」
すると後部座席の老婦人が答えた。
「そこの角を左に曲がった所で停めてください。そこでいいです」
男は言われた通り、住宅地の角を左折した所でクルマを停めた。
「ありがとうございました」
男は料金メータを見ながら、老婦人に声をかける。
「料金は7800円になります」
それを訊いた老婦人は男に一万円札を差し出した。
男はそれを受け取り、お釣りを勘定して老婦人に渡そうとして振り返った。
その刹那、男は一瞬短い声を上げた。
それは振り向いた瞬間、老婦人の顔が目の前にあったため、男の鼻と老婦人の鼻が軽くぶつかってしまったのだ。
「ど、どうも、失礼しました」
男はあわてて謝ったのだが、老婦人はそれには答えず、笑顔を見せて、クルマから降りた。そして雨の住宅地に消えたしまった。
■
男はしばし呆然としていた。
失態だった。
いくら顔がそばにあったとはいえ、お互いの鼻がぶつかってってしまったのはまずかった。
会社に通報されるだろうか。始末書を書かされるだろうか。
そこまで考えて、男はあることに気づいた。
ちょっと待てよ。
普通なら、オレが振り向いただけで、鼻がぶつかるはずなんてないのだ。
これはきっと、オレが振り向いた瞬間、老婦人も顔を近づけたに違いない。
■
でも何故だ。これは何を意味する。
その瞬間、男は気づいた。
あの老婦人はルナだ。三年前、虹の橋を渡ったと思ってたルナだ。
あいつは虹の橋を渡ったんじゃなく、あのあともずうっと、この世にとどまっていたんだ。
オレにさよならと、ありがとうを言うために。
■
男は急いでクルマの外にでた。しかしもう辺りには、老婦人の姿はなかった。
男の頭は、目まぐるしく回転する。
オレとルナはいつも鼻と鼻を軽くぶつけ合って、コミニケーションをとっていた。それを知っているのは。オレとルナだけだ。
だからあの老婦人は、ルナに違いない。ルナが老婦人になって、オレの前に現れたに違いない。
男は切歯扼腕した。
老婦人はなぜ、オレと主人が似てると言ったのか。
オレはそのとき、 その老婦人がルナだってことに、気づくべきだったんだ。
■
雨。降りしきる雨。
それが街路灯に照らされて、無数の針のように地面に突き刺し続けている。
その無数の針は、男の心までも、突き刺し続けている。
それでも男は無言のまま、そこに立ち尽くしていた。
そして男はようやく、ルナが消えた路地に向かってつぶやいた。
ルナ。お礼を言うのはオレの方だよ。
今まで一緒にいてくれて、ありがとう。
《了》
最初のコメントを投稿しよう!