彼女の尻と父の街

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トンネルと呼ぶにはあまりにも短く幅も狭い。僕を乗せた小さな自動車でも対向車とすれ違うことはたぶんできない。小学校の低学年で、もちろん車の運転などしたことはない僕にもそれくらいの想像はできた。出口のところであちら側から来た車が僕たちが通り過ぎるのを待っているのを見れば、その想像が間違いではないことがわかる。運転席の父は軽く右手を挙げてその車に挨拶をすると、両側を雑木林に囲まれた道をしばらく無言で進んだ。季節は秋になるころで、木の種類によっては葉の色を赤黄色に変え始めている。半分くらい開けた窓からは気持ちいい風が入り込んた。 左側の木々の並びがまばらになり、そして突然その貯水池は現れる。大きさは小学校にある25メートルプールくらいだろう。プールとの違いはその水がとても深い緑色をしていることだ。 「ガードレールくらいつければいいのに」 父は独り言のように言った。左側がまた木の茂みになり、ほどなくしてはじまる急な坂道を登りきると、少し広い道路に出る。そこがその街の入り口になる。 「それがさっき言った、あなたのお父さんの街なのね。そして私とこうしてるとその街の風景を思い出す」 「そう。でも正確に言うと、街というよりもそのトンネルと貯水池の深緑色の水の色なんだ。思い浮かぶのは。そしてそれがあの街の景色に繋がってる」 「ということは、私のこのお尻のあたりがそのトンネルと貯水池に何か関連があるということかしら?」 僕はそれについて少し考えてみたけれど、特に思い当ることはなかった。彼女と僕は結婚の約束をしている。仕事で帰りが遅くなると、彼女は職場に近い僕のアパートに泊り、翌朝そこから出社した。同じ服で会社に行くわけにもいかないので、彼女の服は次第に増え、僕のクローゼットの半分を占領している。 「こういうのを半同棲っていうのかな?もしかして迷惑?」 自分の持ち物が増える度に彼女はそう僕に聞く。そして僕はぜんぜん迷惑じゃないと答える。いずれは一緒に暮らすのだから、こうやって少しづつ慣れていくのもいいかもしれない。狭いベッドで小さい布団にくるまって、僕たちはいろんな話をしたけれど、その街の話をしたのは初めてだった。 「何かをしてる時に必ず思い出す風景とかってある?」 隣でうつぶせに寝ている彼女の裸の腰のあたりを手のひらで撫でながら僕はそう聞いてみた。 「たとえばどういうこと?」 「君とこうしてると必ず思い出す場所がある。子供のころ父親と行ったところなんだ。一度だけね」 僕にはいくつかそういう風景がある。風呂で髪の毛を洗っているときは、小学校のゴミ捨て場を思い出すし、洗濯物を干しているときにはミカン畑が思い浮かぶ。行ったこともない瀬戸内あたりの島の斜面のミカンの木。他にもいくつかあるけれど、その行為と思い出される風景との間に、たとえわずかでも因果関係のようなものを発見できたことはない。僕がそう言うと、彼女はしばらく黙って何かを考えていた。 「どんな理由にしても、私がそういう役割をしてるっていうのはちょっとうれしい気がするな」 「そう?」 「だってあなたにとってお父さんはちょっと特別な存在でしょ。もちろん誰にとってもそうでしょうけど、あなたの場合はちょっと事情が特殊だし」 父は僕が小学校の4年生のとき失踪した。自宅から車で10分ほどの工場で働いていた父はとてもまじめな人で、仕事が終わるとまっすぐ帰宅した。連絡もなく帰らないことなど、もちろんそれまで一度もなかった。母は親戚に相談して警察に届けたが、事件や事故につながる情報もなく、ほどなくして失踪者という位置づけがなされる。母は仕事を持っている女性だったので、生活は何とかなったものの、女手ひとつで僕と妹を育てるのは決して楽ではなかっただろう。僕が大学進学を諦めようと決めた頃、父の失踪から7年がたち死亡が認定された。大きな額ではないものの掛け続けていた保険金が支払われ、僕たちは進学することができた。法律の上では父はこの世に存在しないけれど、僕たち家族は父はどこかで生きていると今でも信じている。 「だからそういうのって、あなたの深いところに私が繋がってるような感じがするの。なんか自信が持てる」 彼女がそう感じてくれていることが僕はとてもうれしかった。結婚願望などまるでなかった僕が彼女との結婚を決めた理由は僕自身にもわからなかったし、わかる必要もないとは思っていたけれど、彼女が自分にとって特別な存在であることの材料は少なからず僕を安心させた。 「このトンネルを抜けると30年前の世界に行けるんだ」 あのとき父はそう言った。あまり冗談を言うような人ではなかった父のその言葉は、小さな僕を少し怖がらせた。もしかしたらその小さな恐怖心が、あのとき見た風景の記憶に一定ののバイアスをかけているのかもしれないし、あの言葉は、何かしらのからくりを利用した父のささやかな遊び心だったのかもしれない。 自動車は貯水池を過ぎ坂を上りそしてその街に入る。どことなく古い感じのする造りの家々が並び、人通りはあまりない。しばらく走れば当然のように目に入るはずのコンビニや飲み物の自動販売機も見当たらない。まだ10歳にもなっていない僕に30年前の世界など想像はできなかったけれど、目に映る景色は少なくとも僕の日常にある風景とはどこか違っている。遥か遠くにはそれほど高くはない山が見え、父は黙ったままその山の方向に向かってしばらく車を走らせた。途中何台かの車とすれ違ったけれど、それが30年前の車かどうかは僕にはわからない。父は少し広くなっている道の脇に車を停めてエンジンを切った。とても静かなところだった。車の音が消えてしまうと、物音はほとんどしない。時々どこかで鳥が鳴いた。 「大きくなったら何になりたい?」 しばらく黙って遠くを見ていた父は、僕に顔を向けてそう聞いた。 「サッカー選手」 「そうか」 父は少しだけ笑ったような顔で小さくうなずくと、またしばらく山のほうを見ていた。エンジンをかけ、来た道を戻り同じ場所でわき道に入り、あのトンネルをくぐった。 「その場所って、そのあと一度も行ったことはないの?」 「うん、まだ小さかったから正確な位置はわからなかったし、家からは結構離れた場所だったからね。もちろん、その気になれば探す方法はあったと思う。頑張れば自転車でだって行けたかもしれない」 「でもそうしなかったのね」 「うまく言えないけど、行かないほうがいいような気がして」 「大人になってからも?」 「そうだね」 僕はその街について誰にも話したことはない。もちろん母親にも。あの日、父がなぜ僕をあそこに連れて行ったのかはわからない。何かしらの理由があったとしても、それが僕のためなのか、父自身のためなのか想像すらできない。ただ僕はその風景を、それほど多くはない父との共有物として自分の中にだけ留めておきたかったのだと思う。 「ねえ、私以外の女の子とこうしてるときにその街のこと思い出したことはないの?言っとくけど、私は勇気を振り絞ってこの質問をしてるのよ。だってあなたはこの瞬間に今までに一緒に寝たたくさんの女性のことを思い出すわけだから。何人か何十人か知らないけど」 「そんなに多くないよ」 「たとえひとりでも、それって私にとっては耐え難いことなの。私が嫉妬深いの知ってるでしょ」 「それは知らなかった」 「ばかね。ヤキモチ焼かない女なんてこの世にいないわ。だからさっさと思い出して手短に答えて。そしてすぐに忘れて」 じっくりと思い出す必要などなかった。 「他にはそんなことなかったよ」 「ほんとに?」 「ほんとに」 「なら許すわ。だから他の女のお尻のことはきっぱりと忘れてね」 僕たちは結婚をして、2年後に女の子が生まれ、1年おいて男の子ができた。産休が明けると妻は職場に戻り、時には疲弊を感じることもある慌ただしい日々が続く。人生は生活を維持するためのものになり、家族で過ごす時間と子供たちの成長だけがその証のようになっていた。子供の存在は僕たちの結びつきを形を変えながらも強くしたけれど、教育観や家計のことで考え方の違いも生まれ、時に口論になることもある。しかしそんな時でも、ほどなくして僕たちはまた抱き合うことができた。 「ねえ、私と結婚したこと後悔してない?」 「してないよ。なんで?」 「それならいいの。ねえ、まだ思い出す?お父さんの街」 僕は彼女の腰から下へ手のひらを滑らせる。 「思い出さないみたい」 「ちょっとお肉がついちゃったからかしら」 「どういうこと?」 「あの話を聞いたときに思ったの。ふざけてると思われたくなかったから言わなかったけど。お父さんの街の入る前の上り坂。きっとカーブが一緒だったのよ。私の腰からお尻とね」 「考えたこともなかった」 「明日からダイエットするわ」 尻から腰へと坂を下る。やがて右側に深緑色の貯水池が現れる。僕は水の底深く沈む父の自動車を想う。そして彼女を抱きしめる。
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