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いつもの無表情がゆっくりと動いていく。笑みを浮かべたのだ。まるで花が咲いていく様を連想させるように。
真っ白で優雅な百合の花のような迫力にぼくはしばらく見惚れていた。
濃厚な花の匂いに酔ってしまいそうだった。
普段は意識しなかった唇の赤さだけが曇天の下で鮮やかな色彩を放っている。
笑い声はなかった。
ただ何か天啓に応えるように空を仰ぎ微笑んでいる。
この世のものとは思えない美しさだった。
だけどその笑みはふいにかき消え、凛とした姿勢を崩さずに立ち上がった。背中を向けるとするすると音もたてずに人ごみの中に消えていく。
あっという間に見えなくなった。
ぼくは動くこともできずあの人の行く末をじっと見続けていた。ぽつりと雨が落ちてくる。
翌日からあの人は公園に現れなくなった。
ぼくは日課のように通い続けベンチに座っていたけれど、一度も姿を見ることはできなかった。
季節が移り変わっていく。
緑の色は変わり咲く花にも変化が見える。
ぼくだけが置き去りにされたまま、太陽の高さが変わっていく。
逢えなくなって数か月が過ぎたころ、思いがけないところでその人に再会した。
いや、再会とはいえないだろう。
新聞の一面にあの人はいた。
公園で見かけた時と変わらない、しんとした佇まいで。カメラに捕えられても視線はどこを見ているのかわからない。
「すごいわよね、日本人初の賞だって」
母がお茶を運んできながら新聞をのぞき込んだ。
「そうなの?」
「ええ、聞いたこともない芸術の何とかっていう賞。あんたより若いのにすごいわよね」
そんなすごい人だったのか。
どこかで納得した。
あんなに人の輪から外れて、この世界にとどまっているのかわからない危うさは常人とは違うからだ。
まとう空気が違った。
きっと常識とかルールの窮屈さから離れた場所にあの人はいる。
同じ景色を見ながらぼくとは違う風景を見ていたのだろう。
受賞した作品も紙面に載っていたけれどあの公園とは思えない斬新な絵がそこにはあった。
あの人にはあの池も公園もこうやって見えていたのか。
たった数十センチ離れた場所にいたのにぼくには理解できない景色。
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