151人が本棚に入れています
本棚に追加
失恋
「――――マチー。部屋に戻んねーの?」
『シルク』で伴さんを怒らせてしまった俺は、その場でケイさんに激しく叱責されてもまだ、自分の発した言葉がどれほど伴さんと美律ちゃんにとって重い話題だったかということを理解できていなかった。
だから、マスターにウォッカを奢ってもらい、それを飲んだら家に帰って寝ろと言われても到底眠れるわけがなかったし、胸の奥の方に残る苛立ちが消えることもなかった。
――――何で、伴さんが美律ちゃんとあんなに仲良さそうに・・・っつーか、まるで恋人みたいな雰囲気漂わせてんだよ。あわよくば俺だって美律ちゃんと・・・ってかなり期待してたのに―――――と。
だって、この時は二人の関係を本当に知らなかったし、想像もしてなかったんだから仕方がないだろ?
「んー・・・、俺明日ゆっくりだし、もう一軒行ってから帰るわ。・・・ケイさんにもそう言っておいて」
なぜあんなにキレたのか部屋できっちり説明してやる、と頭から湯気でも立ちそうなほどぷんすか怒って先に戻って行ったケイさんの逆鱗に触れるのはごめんだから、マンションの自動ドアの前で不思議そうに立ち止まってこっちに声をかけてきたモリに伝言を頼み、軽く手を振ってまだまだ眠るには早い夜の街へと歩を向けた。背後で聞こえた、「――マチ、まだ飲むんだ・・・すごーい」といつもなら気にならない控えめなサクの声や聞き慣れたはずの口癖も、なぜだろう・・今夜はやけに腹が立つ。
そうして雪だるま式に膨らんだ苛立ちを燻らせたまま俺は(どうしてその店が気になったのか自分でもわからないが)、この辺りで暮すようになって初めて通る路地に、ひっそりと存在する一軒の店に目を留めた。
「――――クラブ・・蝶?・・・どっかで聞いた事あるような・・・」
『蝶』という店名をどこかで耳にした事があったような気がして、俺は何かに引き寄せられる様に木製の重厚なドアの取っ手に手をかけていた。
店内は間接照明とキャンドルでほんのりと照らされていて、いくつかあるボックス席は平日だからかほとんどが空席、その中の3つのテーブルに数人の先客が座っているだけだった。
「――いらっしゃいませ」と上品な和服の女性が近付いてきて、年齢不詳の綺麗な笑みを浮かべ店内奥のボックス席に俺を促しながら、自分はこの店のオーナーでママの麗子だと名乗り、俺がソファに座ったのと同時に温かいおしぼりを少し広げて寄越した。
「・・・麗子・・ママ?・・・やっぱり聞いた事あったかも」
温かいおしぼりと、そこから漂う仄かなアロマの香りに思わずホッとして俺がぽつりと呟くと、麗子ママは穏やかに微笑んで、「この街が長いですから。・・・『シルク』ってご存知?あのお店の次くらいに古いのよ」と言ってメニューリストを俺に差し出す。
そこで俺は思い出した。「あ・・・そっか。美律ちゃんのとこで聞いたんだ・・・」と。
すると麗子ママがそれまでの余所行き風な笑みではない、なんていうか・・・近所のおばちゃん(失礼だろうが)が浮かべるような庶民的な笑顔で、「まぁ!貴方、みぃちゃんのお友達?」ととても嬉しそうに俺の両手をギュッと握った。
最初のコメントを投稿しよう!