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ナージャ ~蓮の花が咲くとき~
普光院凜月は15歳の誕生日を前にして、祖父の覚元に呼ばれた。
普光院は、毘沙門天を本尊とした千年以上の由緒ある真言宗の寺である。
覚元は霊格の高い僧侶として仏教界では知られており、悪霊払いの祈祷などを得意としていた。
そんな覚元は、厳格な性格で、無口。そんな覚元が少し苦手だった。
少し気が重いが覚元の部屋に向かい、衾越しに声をかける。
「おじい様。凜月が参りました」
「おお。そうか。入れ」
「失礼します」と言いながら部屋に入る。
「立っていないで座りなさい」
──長い話ってことかな…
「はい」
覚元おもむろに話を始めた。
「我が寺には代々伝わる宝物がある。伝承では『三女が生まれ、15歳となった時、これを委ねよ』ということになっている。
ついては、これをおまえに委ねる」
と言うと古めかしい小箱を渡された。
「代々って…今まで女の子が三人生まれたことがないってことですか?」
「どうも我が家に嫁いでくる嫁は男腹が多くてな。たまたまおまえの母が女腹だったからおまえが生まれ、15歳まで無事に育ってくれたわけだ」
「そうですか…」
「ところで、これは何なのですか?」
「とにかく開けてみなさい」
箱を開けてみると綿にくるまれて何か黒い物体が入っていた。
「これは?」
「蓮の種らしい。おまえに委ねられたのだから責任を持って育てなさい。寺の池を使っていいから…」
──それって…池の中で作業をしろってこと…なんて面倒な…
しかし、覚元に口答えする気概があろうはずもなく、凜月は素直に返事をした。
「はい。承知いたしました」
「では、頼んだぞ」
◆
最初は池にポチャンと種を投げ込んでおけば良いかなと思ったが、失敗したら覚元に叱られるのは目に見えている。
いちおうネットで蓮の育て方を検索してみたら結構面倒だった。
──でも睡蓮鉢で育てる訳じゃないから、面倒なのは苗を植えるところまでね…
まずは、「種の凹んでいるお尻の部分を、ヤスリで白いところが見えるまで傷つけ、発芽するまで水に浸ける」か…
やすりで擦ってみるがなかなか白い部分が現れない。
──何百年前の種か知らないけれど、もしかして全部炭化してしまっているんじゃあ…
凜月は不安になったが、慎重に作業を続けると白い分が見えてきた。これを水に浸けておく。
──よかった。あとはちゃんと芽が出てくれれば良いのだけれど…
「縄文蓮っていうのがあるくらいだから、大丈夫よね…」と凜月は誰に言うでもなく独り言を言った。
そして1週間後。種はまだ発芽していない。
「う~ん…『4~7日ほどで発芽する』って書いてあったんだけど…何百年も眠っていたから寝坊助なのかな?
お~い。種君。目を覚ませ」
と凜月は種に呼びかけた。
失敗という事実に蓋をしたまま、凜月は毎朝種の様子を観察していく。
そして10日が過ぎ…
「あれっ!ちょっと種が膨らんだような…そう思うからそう見えるのかな?」
不安に思いながら毎朝種の様子を観察する。
ついに、12日目。ちょこんとした芽が出ていた。
「あっ! 芽が出てる! か、可愛い~」
心配していた分だけ、その反動で可愛さも倍増だ。
しかも、何百年もの眠りから覚めたのだと思うと感慨深い。
早速次の作業に移る。
「それでぇ。鉢に入れた土へ横向きに置き…2cmほど土を被せ…水を入れた睡蓮鉢に鉢を沈める」っと…
しばらくして、発芽した種は苗に育った。
いよいよ池に植え替える。
「うん…家に胴長靴とかあったかな?」
さすがに胴長靴なしで池の泥に入る気にはなれなかった。
探してみたら胴長靴が出てきたが、古めかしく、嫌な臭いを発している。さすがにこれを使う気にはなれず、結局、胴長靴は新調した。
早速池で作業を開始する。
池の水は冷たかったが、池の深さは凜月の腰くらいまでの深さだった。これなら手を突っ込めば何とか作業はできる。
池の中央付近に苗を植え、周囲に肥料を施した。
しばらくすると成長した蓮の葉が水面に届いた。
だが、何だか頼りない。
ネットで調べたとおり、月に一度ほど追肥をする。
最初は抵抗があった作業も、次第に何とも思わなくなっていった。
今は次第に蓮の葉が増えて水面を覆っていくのを眺めるのが楽しみだ。
1年目は当然に花が咲かなかった。
そして翌年。凜月も高校へ進学し、蓮の花のシーズンが近づいていた。
いつもどおり池を眺めると花の蕾が出ていた。
「あっ!蕾ができている。どんな花が咲くか楽しみだなあ」
蕾は日々成長していく。
そしてある日の早朝…
凜月は何かの予感がして目が覚めた。
彼女は小さなころから他人よりも少しばかり霊感が鋭かったのだ。
──これはきっと蓮の花が咲くのだわ…
早速寺の池へ行ってみると花は咲いていなかった。
「な~んだ。まだか…」
諦めきれずにしばらく池を眺める。
朝の曙が次第に明るさを増していく。
すると…
「ポン」という微かな音がした。
見ると蓮の花びらが一枚開いていた。
「わーっ。蓮の花が咲くときに音がするって本当だったのね…」
感慨に耽っていると、次々に音がし始めた。
「ポン、ポン、ポン、ポン…」
花びらがどんどん開いていく。
そのうちに他の蕾も一斉に咲き始めた。
「凄い。凄い。綺麗…」
凜月が感動に浸っていると、池の中央にある一際大きな蕾が「ポン」という音とともに一気に開いた。
「あれっ!今、蕾から何か飛び出したような…」
もう一度池を見渡すが何も見えない。
「何だったんだろう…」
◆
その日。学校では気分よく過ごせた。
放課後。
新しくできた女友達とおしゃべりをしているうちに、時間を忘れ、帰りが遅くなってしまった。
時は黄昏時。逢魔が時である。
凜月が交差点を渡ろうとした時、嫌な予感がして、そちらを見ると自動車が暴走してきた。
間一髪、すんでのところで自動車を避ける。
「もう。こんな狭い道で危ないなあ…」と一人ドライバーに文句を言っていると、凜月が左腕にはめていたパワーストーンのブレスレットが砕け散った。
「きゃっ。何? 何が起こったの…」
が、次の瞬間、凜月は気づいた。
何者かが凜月の肩にしがみついている。
嫌な予感とともに振り返ると、それは頭から血を流し、血だらけの若い女だった。とてもこの世の者とは思えない。
──これは幽霊!?
凜月は怖くなって叫び声をあげると女を振り払った。
女に触れると「バチッ」という音とともに閃光が生じ、女は吹き飛ばされた。
凜月はとにかく怖かったので、後ろも振り返らずに全速力で走ってその場から逃げた。
だいぶ走ったところで、息切れがしてきたので、とにかく止まって息を整える。
──ここまで逃げれば大丈夫よね。
恐る恐る後ろを振り返るが、女の幽霊らしきものは見当たらなかった。ほっと安堵の胸をなでおろす。
それも束の間。
「なんでえ。あんな奴を怖がるなんて、なさけねえ」という声がした。声は凜月に向けられているようだ。
そして声がした方を見ると…
「げえっ!」
なんと電柱の上に人が立っていた。
年頃は凜月と同じくらいの男子だが、恰好が奇妙だった。
蓮の花や葉をあしらった中華風の衣装で、手には槍らしき物をもっている。
──何よあれ? コスプレ? しかも、あんな凶器を持っているなんて危ない人に違いない。
これは無視するに限る。
凜月は、声をかけた男子を無視してスタスタと家へ向かって歩き始めた。
すると男子は電柱から宙を飛ぶように音もなく飛び降り、凜月に並行して歩いてきた。
「なんでえ。つれないな。おめえは俺の親みたいなもんなんだからもっと優しくしてくれよ」
「あんたなんか産んだ覚えはないわ」
「だから育ての親だよ。親身になって育ててくれたじゃねえか」
「はあっ? あんたなんか育てた覚えはないけど…」
「蓮の種を育てただろう。」
「えっ! 何であんたが蓮の種のことを知っているのよ?」
「俺はあの蓮の種に封印されていたんだ。おめえは、その種を育てて封印を解いてくれた」
──じゃあ…あの蓮の花が咲いた時に飛び出したのって…
「とにかく、あんたなんか知らないから付きまとわないで!」
「けっ。つれないな…」
そういうと男子は去っていった。
「はーーーーっ」と凜月は大きなため息をついた。
──今日はせっかく気分が良かったのに、夕方からはさんざんだわ…
◆
それからは何事もなく家へたどり着くと、凜月は取りも直さず覚元の部屋へ向かった。
砕け散ったブレスレットは、凜月が小さい頃に覚元からプレゼントされたものだった。だが、なぜかブレスレットをしていないと覚元のみならず、家族からも𠮟られるので昼夜を問わずずっと着けていて、いつしか体の一部のようにも感じていた。
それが亡くなった今、左手首がスース―してなんだか頼りない。
覚元の部屋に着くと声をかける。
「おじい様。凜月が参りました」
「おお。そうか。入れ」
「失礼します」と言いながら部屋に入る。
「おまえの方から来るとは珍しいな。何かあったか?」
凜月は、ブレスレットが砕け散ったこと、そしてその直後に幽霊らしきものに会ったことを話した。
「そうか…いよいよその時が来たか…」
「その時って…?」
覚元はブレスレットの謂れを語ってくれた。
凜月は、実は霊感がとても鋭い子で、小さい頃は怖い幽霊や妖怪を見たと言っては泣きじゃくっていたらしい。
そこで覚元が霊感を封じ込めるブレスレットを作り、凜月に着けさせたのだ。
物心がつく前のことだったので、凜月は全くそのことを覚えていなかった。
「おまえの成長とともに霊格が高まり、それに耐えきれずにブレスレットが砕け散ったのだろう」
「では、またブレスレットを作っていただけませんか?」
「いや。わしの力ではあれ以上の物は作れない」
「そ、そんな…」
「とりあえず、魔除けのブレスレットは作ってあげよう。あとは自分でなんとかできるようにすることじゃな」
「何とかって?」
「幽霊や妖怪の類は、見たり声を聴いたりできると知れると、その者のところに寄ってくるからな。普通は気づかれないように無視を決め込めば問題ないのだが、中には害意のある者もおる。その辺の小物ならば自分で払えるようにならないとな」
「そんなぁ…」
「とにかく明日からは修業じゃ。修行は朝が良いから、明日の早朝からわしのところに通うこと。良いな」
「はい…わかりました…」
「なに。案ずることはない。才能だけからすれば、わしよりもおまえの方が上かもしれん。すぐに身に付くさ」
「はあ…」
──そうだ。あれも相談しておかないと…
凜月は、例の危ない男子のことを思い出した。
「それから…」
「なんじゃ。まだ何かあるのか?」
凜月は、電柱の上に立っていた男子のことを話した。
「確かに種に封印されていたと言ったのじゃな」
「はい」
「伝承では詳しいことは触れられていないのだが、家宝というからにはいかにもありそうな話ではあるな…」
その時、凜月の背後から声がした。
「その危ない男子というのは、俺のことか?」
──えっ! いつの間に…
凜月は驚いたが、それ以上に覚元は驚愕の目で男子を見ている。
覚元は言った。
「そのお姿は…もしや哪吒太子様でいらっしゃいますか?」
「そうだ。坊さんだけあって良く知っているじゃねえか。だが、太子なんて呼ばれるとこそばゆいから、普通に哪吒と呼んでくれ」
哪吒は、毘沙門天の三男であることから哪吒太子と呼ばれる。
蓮の花や葉の形の衣服を身に着け、乾坤圏(円環状の投擲武器)や混天綾(魔力を秘めた布)、火尖鎗(火を放つ槍)などの武器を持ち、風火二輪(二個の車輪の形をした乗り物。火と風を放ちながら空を飛ぶ)に乗っている。
哪吒は凜月に言った。
「危ない男子なんかじゃないからな。わかったか?」
「わかったわよ。でも、現代にその格好じゃそう思われてもしょうがないわ」
「確かに。何百年かしれねえが、眠っていた間に世の中すっかり変っちまってる。俺もわからないことだらけだから、慣れるまでここの家にやっかいになるぜ」
「承知いたしました」
──えっ。おじい様それはないんじゃ…
凜月は抵抗を試みる。
「あんた普通の人には見えないんでしょ。それにその格好も何とかしないと…」
「ああ。これでどうだ?」
哪吒は、普通の男子のカジュアルな恰好になると実体化した。
それをあっけにとられながら凜月は眺めていた。
もはや文句のつけようがない。普通の高校生男子である。
そしてあれよあれよという間に普光院に哪吒は同居することになった。
◆
翌朝から凜月は覚元のもとに通い、修行を始めた。
普光院は真言宗の寺らしく、阿字観瞑想から始まり、印の結び方や真言の唱え方、護符の使い方などに及んだ。
一方、哪吒は、凜月と同じ高校に通うことになった。
覚元が裏から手を回して強引にねじ込んだらしい。
哪吒は、粗忽で乱暴者な性格で、高校生活では、男子とは度々喧嘩沙汰を起こしたが、重傷を負わせるようなことはなかった。それでも手加減はしているらしい。
だが、女子からは人気があった。
哪吒はガンダーラ遺跡の仏像のように東洋と西洋を折衷したような顔つきで、日本人からするとハーフ顔のハンサムに見える。
それに女子に対しては親切で決して暴力を振るうことはなかった。
凜月は、哪吒が女子と仲良くしていると不思議と機嫌が悪くなるのだった。
◆
凜月が修行を始めて半年が過ぎた頃、ようやく初歩的な退治程度はできるようになっていた。
そんなある日、凜月と哪吒は覚元に呼ばれた。
覚元は言った。
「東町に奥深い鎮守の森があるだろう。その近辺で行方不明者や怪我人がでておってな。警察も捜査をしているのだが、目撃者の話だと、どうもこれが蜘蛛の化け物のしわざらしい。
そこでだ。凜月。ちょこっと行って退治てこい」
「えーっ!何で私が?」
「わしはこの間の妖怪退治で腰を痛めてしまってのう。まともに動けぬのじゃ」と言うと、これ見よがしに腰を擦った。
「怪我が治ってからおじい様が行けばいいじゃない!」
「なにを言っておる。その間に被害者が増えたらどうする」
「それは…そうだけれど…」
「済みませぬが哪吒様。凜月を助けてやってくださらぬか?」
「おう。わかった。任せとけ」
「そうよ。私じゃなくて哪吒が退治すればいいんじゃない。あんた強いんでしょ」
「それじゃ修行にならねえだろう」
「何よ…あんたまで…」
そして、その日の晩。蜘蛛の化け物を退治に行くことになった。
◆
凜月と哪吒は鎮守の森に来ていた。
今日は朔の日の翌日の二日月で、視界はとても暗く、時折聞こえる鳥やわからない動物の鳴き声が凜月の恐怖を誘った。
凜月は化け物の気配を探りながら恐る恐る進んでいく。
ふと嫌な予感がして後退ると、暗がりから太い蜘蛛の足のようなものが凜月がいた場所を襲い、地面を深くえぐった。
「きゃっ」と驚きの悲鳴をあげる凜月。
その後も蜘蛛の足は次々と襲ってくる。
勘の良さを頼りに、それを何とかぎりぎり避ける。
凜月が霊感を集中するとボーっと化け物の全体像が感じられた。
──そうか…視覚に頼らなくても霊感で感じればいいんだ…
化け物は、女郎蜘蛛のような禍々しい大蜘蛛のボディに、人型の上半身が乗っている姿だった。人型の方も禍々しい模様の入った顔で、口が大きく裂けている恐ろしい形相だった。
いちおう女のようだ。女郎蜘蛛の化け物ということだろうか…
姿が見えたことで攻撃は避けやすくなったが、反撃をしないとジリ貧だ。
──ここは奴の動きを止めなくちゃ…
ここは急ぐので簡易の方法で行くか…
凜月は刀印を結ぶと空中に九字を切りつつ唱える。
「臨・兵・闘・者・皆・陣・列・前・行!」
すると蜘蛛の化け物は空間に呪縛されて動きを止め、これを解こうと必死にもがいている。
──よしっ!今だ!
「炎帝招来!」と鋭く唱えると、炎帝の護符を懐から取り出し、蜘蛛の化け物に投げつけた。
激しい炎が蜘蛛の化け物を襲い、化け物は恐ろしげな悲鳴をあげながら苦しさにもがいている。
──お願い。このまま息絶えて…
だが、蜘蛛の化け物は火事場の馬鹿力とばかりに最後の力をふりしぼって九字の呪縛から強引に逃れ、炎まみれの体で凜月に突進してきた。
突然の出来事に凜月の体は反応できなかった。
凜月はあまりの恐怖に目をつぶり、「きゃーっ!」と悲鳴をあげる。
その時…
「火尖鎗!」
それまで高みの見物を決め込んでいた哪吒が動いた。
彼が持つ火尖鎗から炎が射出され、蜘蛛の化け物は寸前のところで黒焦げとなった。
凜月は緊張の糸が切れ、その場にへたり込んでしまった。
しばらくして、哪吒への怒りが湧きおこってきた。
「もう。もっと早く助けなさいよね!」と苦情を言うと凜月は哪吒をポカポカと叩いた。
その顔は涙ぐんでぐちゃぐちゃになっていた。
哪吒は叩かれてもちっとも痛くないのだが、どう対処してよいかわからず、困惑の表情を浮かべていた。
◆
翌朝。
凜月は覚元のところへ報告に行った。
だが、労いの言葉の一つもあるかと思いきや…
「たかが蜘蛛女郎ごときに手こずるとはなさけない。しかも、哪吒様のお手を煩わせるとは…まだまだ修行が足らんのう…」
凜月は反論する気概も湧かず、答えに窮した。
「…………」
そして、いつまでこんなことが続くのかと途方に暮れるのであった。
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