右手

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 「良かったら、ここ座ってください。」  単語帳に落としてた視線を上げ、おばあさんに席を譲る通学時の電車内。おばあさんは私に促されるまま、優しい笑みを浮かべ席に座る。その表情を見て私は、少し申し訳ない気分になる。  決して私は、通学時間を活用して勉強を進めつつも周りに気を配り年配の方への配慮も忘れない優等生、などではない。  普段よりも少し寝坊した朝に今日行われる単語テストの存在を思い出し、朝食もろくに食べないまま家を出て駅へ向かい、電車に乗り込むと同時に口うるさい英語教師の説教を免れたい一心で単語帳を開いたはいいものの、同じ車内の少し離れたところにとある人物を見つけてしまったために全く集中出来ず、周りをキョロキョロと見渡していたために、たまたま立っているおばあさんの存在を見つけただけなのだ。  向こうから声をかけてくれれば、私がこんな思いをしなくて済むのに。  自らの勇気の無さを棚に上げ、そのとある人物に責任を押し付けている間に電車は私ととある人物が通う高校の最寄り駅に到着する。  とある人物とは、幼馴染である彼のことだ。  幼稚園に入る前から互いの家を行き来し、今の高校に至るまで全て同じ学校に通っている。幼い頃はよくおままごとや人形を使って二人で遊んでいた。当時の彼は泣き虫で、男の子の遊びにあまり馴染めていなかった。  彼は小学校三年からサッカーを始めた。元から足も速く、運動能力は高い方だった彼はその能力を存分にサッカーで発揮し、応援しに行った試合でよくゴールを奪っていた。また小学校高学年から中学時代にかけて著しく身長が伸びたこともあり、気がつくと彼は、気の弱い泣き虫から学校のスターになっていた。  勉強も運動も、ましてや容姿にもこれといった特徴のない私とは住む世界が違う人間になってしまった彼だったが、私と接する態度は何も変わらなかった。段々と彼に遠慮をするように私とは対照的に、学校でも登下校の時でも彼は私に笑顔で話しかけてきた。彼と仲良くしている姿を同じ学校の、所謂カースト上位の女子に見られ、心無い言葉を浴びせられたこともあったが、それがどうでもいいと思える程、彼と話せるのが嬉しかった。そしてなりより、私が心無い言葉を浴びせられたという事実を知ると、彼は矢面に立って私を守ってくれた。その事実こそが、私の支えになった。  いつの間にか私が見上げるような背丈になり、低い男性の声に変わった彼は、その優しさを表現する強さも身につけていた。  そんな彼を、私がいつから意識するようになったのかは覚えていない。ずっと昔からかもしれないし、周りと同じように彼が輝く存在になってからかもしれない。  とにかく私にとって今の彼は、単語よりも思わず視線を送ってしまうような存在なのだ。  最寄り駅と言っても、駅から高校までは歩けば二十分以上かかる上、その大半が坂道になっている。そのため大半の生徒はバスを使って登下校を行うのだが、彼がバスを使っている姿を見たことがない。一度彼になぜバスを使わないのかと聞いたことがあるが、深い理由はないと言いながら右手で鼻を触った。  私は知っている。彼は噓や隠し事をする時、決まって右手で鼻を触る癖があることを。そして、サッカーの強豪校から推薦の話が来ていたが、下にまだ弟と妹がいるという理由で、特別部活が盛んでもない公立校を選んだということを。  きっと彼は両親に余計な負担をかけまいとバスの定期代を浮かせるために徒歩での通学を選んでいるのだろう。そう言えば、入学当初彼は自転車での通学を試みていたように記憶している。流石に片道十キロ近い道を自転車で通学し、授業を受けて部活までやると体力が持たないということで自転車通学は早々に断念していた。  親のすねをしっかりかじってバスに乗る私は、学校に到着する頃にはすっかり単語テストを諦めていた。実際テストは散々な結果に終わり、英語教師から名指しの説教を受けた。  「珍しいな。お前が説教受けるなんて。」  授業終わり、彼が私に話しかけてきた。  「忘れてたの、テストの存在を・・・それよりなに?なんか用でもあるの?」  「そんな冷たくあしらうなよ。シンプルに傷つくわ。」  「別に冷たくなんてしてないし。」  普通に話そうと考えれば考える程、どうしても素っ気ない態度になってしまう。そんな自分に、また嫌気が差す。  「お前、今日暇?」  「特に用事はないけど・・・」  「じゃあ一緒に帰ろうぜ。俺、今日部活休みなんだ。」  その言葉に私は思わず声を出してしまいそうになる喜びを感じると同時に、その喜びを少しでも抑えるよう、自分の心に言い聞かせる。  彼が私と一緒に帰ろうと誘う時は、決まって相談がある時だ。彼に頼られる存在であるのは嬉しいが、単純に私と帰りたい訳ではない。脆い感情を積み重ねは、些細なきっかけで崩れていく。誘われた喜びはすぐさま、彼にとって深い意味はないのだという虚しさに変わっていった。  「ってな訳でさ、告白して来てくれた子を傷つけずに上手く振る方法を教えてくれ。」  案の定、彼は私に相談を持ち掛けてきた。それも、到底私には理解出来ない次元の相談を。  「そんな持ってる側の人間の悩み、私には手に負えません。」  「頼むよ、こんな相談出来るのはお前だけなんだ。」  自慢する素振りもなく、真剣に悩んでいるであろうことがこちらに伝わってくるだけに、あまり突き放すとこちらが悪いことをしたような気分になる。  「告白してくれるのはありがたいし、俺だって嬉しい。でも、毎週のように誰かから告白されて、しかも場所も選ばず突撃してくるような人まで相手にするのは、正直疲れる。だけどあんまり無愛想に対応するのは折角告白して来てくれた人に申し訳ないし・・・いや、俺だって変な悩みだとは自覚している。部活の同級生とか、ましてや先輩にこんな話聞かれたら、きっと袋叩きにされるだろう・・・だから、お前に相談してるんだ。長い付き合いのお前なら、何かいいヒントをくれるんじゃないかと思って・・・な、頼むよ。」  ここまで頼りにされれば、どんな相談の内容であっても悪い気はしない。だが単純に、彼の力になれそうなアドバイスが思いつかない。  「・・・いっそその中の誰かと付き合っちゃえば?付き合った後に好きになることだってあるし。」   心にもないことを平気で口にする。それも彼がどう返してくるかを完全に把握した上で。  「そんなこと出来ない。相手の気持ちに応えるためにはこっちだって中途半端な気持ちじゃだめだ。とりあえずなんて失礼だろ。」  顔と立場に似合わず堅物な彼は、右手で鼻を触ることなくそう言ってのける。  どうせあなたに告白する連中の大半は、ミーハーのワーキャーで、誠実に応える必要なんてないと言ってやりたくなる。だけどそんな毒を吐けばきっと彼は私を見損なう。彼に嫌われたくない一心で、自らの醜い部分を必死に隠す。  「だったら正直に言えばいいんだよ。他に好きな人がいるって。」  「・・・いないよ、好きな人なんて。」  その言葉を口にすると同時に、彼の右手が鼻に触れる。その瞬間、全身の血の気が引いていくのがわかった。  「・・・相手が傷つかないように振るって、結局は自分の罪悪感を減らしたいだけでしょ?そもそもそれが傲慢なんだよ。勇気を振り絞って告白した相手の想いに応えられない以上、振った側もそれなりに傷を負うのは当然だよ。自分の都合の悪いことから目を逸らそうなんて、そんな甘えは許されないもの。」  少しの間冷静さを失った私は、感情的に思い浮かんだ言葉を繰り出してしまった。それでも自分に対して厳しさを持つ彼は、そんな私の言葉を真正面から受け止める。  「そうだよな・・・お前の言う通りだ。俺は自分の嫌なことから逃げようとしていただけだ。相手を傷つけないように振るなんて、少しでも相手の気持ちを考えていたらそんな発想にはならないよな。」  違う。私はあなたのような人間に偉そうに言えるような立場じゃない。彼は私の言葉を受け止めたが、私は私の言葉を受け止めきれず、その衝撃で棚に上げていたものが次々と地面に落ちる。  「ありがとな。やっぱりお前は頼りになるよ。」  笑顔の彼は続けざまにこう言った。  「やっぱりお前は最高の友達だ。」  彼の右手は、ポケットの中でピクリとも動かなかった。            
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