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離れは庭の奥に建っていた。小さな石造りの建物の周りには、色とりどりの花や野菜が植えられていた。庭の椅子に腰かけていた老女が、クラウスを見て目を丸くした。顔に、大きな痣があった。
「まぁ…まあまあ…坊ちゃんじゃありませんか」
「久しぶり、ねぇや」
「ご立派になられて。学校は楽しいですか?お友達は?」
「今はね、学校で教える方に立っているんだよ。お友達は、そうだね、たくさんできたよ」
優しい声で老女の手を取る。にこにこと笑う老女は「お茶にしましょうね」と言うとぱっと手を離し家に向かった。
「マーサ、私の乳母だったんだ。もう随分年でね、昔のことと最近のことが入り混じる」
「かわいらしい方ですね。私がいてもいいんでしょうか?」
「君を紹介したかった一番の人だ。行こう」
離れの中は宝箱のようだった。様々な織物や刺繍が飾られ、年季の入った糸車や織機が置かれていた。植物のリースやスワッグが所せましと飾られているのを眺めながら、エメは目を輝かせた。
「お客様が来られるのは久しぶりですからね」
「ああ、ねぇやに紹介したかったんだ。エメといって、私の奥さんになる人だよ」
「まぁ…」
顔の前に両手を当て、マーサは再び目を丸くして驚いて見せた。顔に喜びと好奇が満ちている。
「エメです。お会いできてうれしいです」
「こんなばばの所に、ありがとうございます。そうですか、坊ちゃんと…旦那様は?」
「さっき許しをもらったところだよ」
「それはそれは…ようございました。旦那様はすこーし、こう…一本気なところがありますが、お優しい方ですからね。ばばのために終の棲家もご用意してくださって…」
マーサは年季の入ったカップを撫で、穏やかな口調でゆっくりと話した。柔らかな物腰に、小さな手が愛らしい。
「お嬢さま、坊ちゃんは良い方ですよ」
「はい、私もそう思います」
「そうですか、そうですか…」顔の痣を撫で、ふっと遠くを見るような目になる。「マーサは顔に痣があるでしょう。お嫁の貰い手もつかんだろうとお屋敷の奉公に出されましてね。見目がよくないとたくさん断られる中で、旦那様に雇っていただいたのです。マリーお嬢様と、クラウス坊ちゃんの乳母をさせていただきました。坊ちゃんはそれはそれはお転婆で手を焼かされましたよ。四十を過ぎたマーサを、ねぇやと呼んで好いてくださいました。マーサには夫も子もおりません。お嬢様と坊ちゃんと過ごした時間が、マーサのかけがえのない生涯の宝物でございます」
「お転婆だったんですか?」
「…昔の話だ」
「あら失礼、坊ちゃんも恰好つけたいお年頃ですね」
クラウスがたじたじになるのがおかしくて、エメはくすくすと笑った。マーサも、つられるように朗らかに笑った。
「マーサ、机を借りてもいいか?」
「ええ、どうぞどうぞ。糸がお邪魔ですね。どけますね」
空いた場所に、クラウスが紙を広げる。婚姻の届け出だった。
「書いてくれるか」
「…はい」
「まぁ、お嬢様、字がきれいでいらっしゃいますねぇ。かわいらしい字。坊ちゃんの字は変わりませんねぇ」
「ねぇやに厳しく教わったからな。敵わないが」
「マーサなんかよりずっときれいですよ」
ふふふ、と笑うマーサに見守られて、ずっと書けないかもしれないと思っていた書類にサインをした。心が芯からじわりと温まるようだった。
「お若い人の好みに合うか分かりませんけれど、」
帰り際、マーサはそう言って刺繍と織物の壁飾りと草花のリースを手渡した。
「うれしい、かわいいなって思ってたんです」
「まあ。うれしゅうございます。坊ちゃんのお友達がいらっしゃるのは久しぶりでしたからね。また遊びに来てあげてくださいね」
「はい。また、ぜひ」
にこにこと差し出された小さな手を握ると、その小ささから想像のつかない強さでマーサがエメの手を握った。
「坊ちゃんのこと、よろしくお願いいたします。坊ちゃんの幸せが、マーサの願いでございます」
「はい。必ず」
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