番外編4 サイン

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離れは庭の奥に建っていた。小さな石造りの建物の周りには、色とりどりの花や野菜が植えられていた。庭の椅子に腰かけていた老女が、クラウスを見て目を丸くした。顔に、大きな痣があった。 「まぁ…まあまあ…坊ちゃんじゃありませんか」 「久しぶり、ねぇや」 「ご立派になられて。学校は楽しいですか?お友達は?」 「今はね、学校で教える方に立っているんだよ。お友達は、そうだね、たくさんできたよ」 優しい声で老女の手を取る。にこにこと笑う老女は「お茶にしましょうね」と言うとぱっと手を離し家に向かった。 「マーサ、私の乳母だったんだ。もう随分年でね、昔のことと最近のことが入り混じる」 「かわいらしい方ですね。私がいてもいいんでしょうか?」 「君を紹介したかった一番の人だ。行こう」 離れの中は宝箱のようだった。様々な織物や刺繍が飾られ、年季の入った糸車や織機が置かれていた。植物のリースやスワッグが所せましと飾られているのを眺めながら、エメは目を輝かせた。 「お客様が来られるのは久しぶりですからね」 「ああ、ねぇやに紹介したかったんだ。エメといって、私の奥さんになる人だよ」 「まぁ…」 顔の前に両手を当て、マーサは再び目を丸くして驚いて見せた。顔に喜びと好奇が満ちている。 「エメです。お会いできてうれしいです」 「こんなばばの所に、ありがとうございます。そうですか、坊ちゃんと…旦那様は?」 「さっき許しをもらったところだよ」 「それはそれは…ようございました。旦那様はすこーし、こう…一本気なところがありますが、お優しい方ですからね。ばばのために終の棲家もご用意してくださって…」 マーサは年季の入ったカップを撫で、穏やかな口調でゆっくりと話した。柔らかな物腰に、小さな手が愛らしい。 「お嬢さま、坊ちゃんは良い方ですよ」 「はい、私もそう思います」 「そうですか、そうですか…」顔の痣を撫で、ふっと遠くを見るような目になる。「マーサは顔に痣があるでしょう。お嫁の貰い手もつかんだろうとお屋敷の奉公に出されましてね。見目がよくないとたくさん断られる中で、旦那様に雇っていただいたのです。マリーお嬢様と、クラウス坊ちゃんの乳母をさせていただきました。坊ちゃんはそれはそれはお転婆で手を焼かされましたよ。四十を過ぎたマーサを、ねぇやと呼んで好いてくださいました。マーサには夫も子もおりません。お嬢様と坊ちゃんと過ごした時間が、マーサのかけがえのない生涯の宝物でございます」 「お転婆だったんですか?」 「…昔の話だ」 「あら失礼、坊ちゃんも恰好つけたいお年頃ですね」 クラウスがたじたじになるのがおかしくて、エメはくすくすと笑った。マーサも、つられるように朗らかに笑った。 「マーサ、机を借りてもいいか?」 「ええ、どうぞどうぞ。糸がお邪魔ですね。どけますね」 空いた場所に、クラウスが紙を広げる。婚姻の届け出だった。 「書いてくれるか」 「…はい」 「まぁ、お嬢様、字がきれいでいらっしゃいますねぇ。かわいらしい字。坊ちゃんの字は変わりませんねぇ」 「ねぇやに厳しく教わったからな。敵わないが」 「マーサなんかよりずっときれいですよ」 ふふふ、と笑うマーサに見守られて、ずっと書けないかもしれないと思っていた書類にサインをした。心が芯からじわりと温まるようだった。 「お若い人の好みに合うか分かりませんけれど、」 帰り際、マーサはそう言って刺繍と織物の壁飾りと草花のリースを手渡した。 「うれしい、かわいいなって思ってたんです」 「まあ。うれしゅうございます。坊ちゃんのお友達がいらっしゃるのは久しぶりでしたからね。また遊びに来てあげてくださいね」 「はい。また、ぜひ」 にこにこと差し出された小さな手を握ると、その小ささから想像のつかない強さでマーサがエメの手を握った。 「坊ちゃんのこと、よろしくお願いいたします。坊ちゃんの幸せが、マーサの願いでございます」 「はい。必ず」
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