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第13話 熱い吐息
「さあ、これで人払いはオッケイよ」
ナーティーズ☆エンジェルのオーナーママは、お店の隅にあるボックス席へ伊佐神を座らせたあと、シオリコを呼んでしばらくこの席へは接客不要と告げた。
何か意味ありげととったシオリコは、黙ってうなずいた。
壁際のソファに腰かけた伊佐神の真横に、ナーティの巨体が座る。
ググッとソファがたわむ。
伊佐神の鼻孔を、シャネルの香水と化粧品の入り混じった凄まじい匂いが、暴力的に襲ってきた。
「本当にダンディでいらっしゃること。
この小さな胸が苦しいのはなぜかしら。
まるで初恋の彼に再会した時のよう。
それで、ワタクシに御用ってどういうことかしら、元伊佐神組の組長さん」
伊佐神はまだ名乗っていない。
ハッとしてナーティに顔を向ける。
伊佐神よりさらに大きな顔面が、必要以上に近くにあった。
「おほほっ、イヤだわあ、組長さん。
失礼、いまは立派な会社経営者。
社長さんね。
ワタクシ、この業界はすこーし長くやっていますのよ。
当然その筋のお方関係は、すべて把握しておりますわ」
ナーティは裏声で甲高く笑うと、伊佐神の耳元で囁いた。
「お噂どおり、渋くて素敵な殿方。
このあと、ワタクシのお部屋へいらっしゃいな。
ううーんと楽しませて、あ・げ・る」
伊佐神は耳たぶを舐められ、全身に怖気が走るのを感じた。
「あ、あ、あのう、わた、わたくしは、まったくノーマルでございまして。
き、今日はナーティさまにお願いがござんして、やってまいりましたぁ」
伊佐神もまた甲高い裏声で、ナーティと視線が合わないように下を向いたまま、ふり絞るように言った。
「最初は誰もがノーマルなの。
でも、お楽しみは後でもいいわ。
社長さんのお願いなら、ワタクシ何でも聞いてしまいそう。
ああん、乙女心に火がついちゃったわ!
我慢できない!」
ナーティは上からのしかかるように、さらに伊佐神に近寄った。
長く太い髪がまるでメデューサの蛇のごとく、伊佐神の顔にからまる。
「ひっ、ひっ、憑り殺される!
待ってください、待ってくださーいっ」
伊佐神は両腕を自分の顔の前でばってんに組んで、必死の抵抗をしめした。
「拒否されればされるほど、ワタクシ燃えるの!
ワタクシ、M体質なのよ。
ああん、よく知ってらしゃるわねえ。
あら、いやだ、この人マジに泣きだした。
ワタクシが殿方の涙にも弱いって知ってらしたのね。
さすがは元伊佐神組七代目だわ。
はい、じゃあ取りあえず、お話だけうかがうわ」
ナーティはいったん伊佐神にのしかった巨体をどけた。
伊佐神はヒィヒィと本気で泣きながら、しゃくりあげている。
「もう泣かないの、ほらこうやって手をつないでいてあげるから」
もはやまったく抵抗する気もない。
されるがままの伊佐神は、ナーティのやけに脂ぎった太い指に己の左手の指が一本一本からまれているのを、涙目で見た。
長い爪にはシルバーのラメライン、ラインストーンには本物のルビーが輝いている。
「ヒッ、ヒック、実は、でございますねえ」
そこから約一時間にわたり、伊佐神はこれまでの経緯と諸事情、そして仲間である千雷みやびと炉治玉三郎の二人についても、知る限りのことを説明した。
雍和と呼ぶ異界の化け物が現れ、この世に厄災を降り注ごうとしていることを。
それを阻止するために、神に選ばれし戦士を集めていることを。
伊佐神はかつて金融界で話術を磨いた経験があり、弁がたつ。
したがってナーティはまるでテレビでニュース解説でも観るかのごとく、場面を容易に想像しながらうなずいて聴いていた。
伊佐神の説明のあと、沈黙がおとずれた。
ナーティが再び口を開くのに、さらに十分ほどの時間を要した。
「そんなお話、到底信じられないわ。
これがあの智将と呼ばれた、元伊佐神組長の言葉でなかったら。
もう一度お訊きするわ。
今のお話はすべて本当のこと、実話であることに間違いないのかしら」
伊佐神はテーブルの上においてある、ミネラルウォーターの注がれたグラスを一気に傾けた。
「わたくしはチンケな人間ですが、今、ナーティさまにお話しいたしましたこと、すべて嘘偽り一切ございません!」
ナーティはふっと息を吐いて、ソファに背中をつけた。
五センチはあろうかと思われる、長いつけまつげの目をしばたたく。
「そう。
あなたの瞳を見れば、嘘じゃないってわかるわ。
ただ、どうしてワタクシのかしら。
ワタクシはいたって平凡な、どこにでもいるか弱い乙女でしてよ」
「へい、みやびさま、珠三郎さま、そしてナーティさまのお三人。
皆さまのお力が必要だってことまでは、わたくしの拙い力でわかりますんですが。
なぜこのお三人だけに雍和を葬る力が宿っているのかは、さっぱり見当もつきません。
そう、キーワードは『三すくみ』、ってことなんですが。
申し訳ありません」
頭を下げる伊佐神に、ナーティは優しげな眼差しを向けた。
「社長さんのお頼みを断ってはワタクシ、もうこの業界で生きていけないわ。
ワタクシは非力な女子ですが、社長さん、いえ藤吉さんと呼んで構わないかしら。
藤吉さんのために、ひと肌脱いでみたいと思いますわ」
「おお、お願いできますかあ!
ありがてぇ」
ただし、とナーティは真顔で言った。
「ワタクシ、そのみやびとかっていう小娘のように、愛しい藤吉さまからお礼なんて、ビタ一文いただこうなどとは思いませんの。
無償の愛。
なんてステキな響き!
アルバイト料をせしめようなんて料簡のせまい、そんな意地汚い小娘とうまくティームを組めるかしら。
ううん、ナーティ、がんばるわ。
藤吉さんのために。
それから、三人ティームのセンターはもちろんこの艶やか乙女、ナーティ白雪が務めさせていただくわ。
それがワタクシの小さな小さな条件ですの。
よろしくって?」
おほほほっと笑うナーティの声は、どう聞いても、ガハハハッと雄たけびをあげるマウンテンゴリラのようだと伊佐神は思ったのであった。
センターを主張する、みやびとナーティ。
これで本当に雍和に立ち向かうことができるのだろうか、人選にどこか重要な手違いはなかったのだろうか。
伊佐神の脳裏にはネガティブな思考が駆け巡っていった。
つづく
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