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第17話 予知能力
伊佐神は禁煙して八年になる。
しかし、いまこの時ほど禁煙を後悔したことは、ない。
全館空調は管理されており、室内はクールビズ基準に則った温度が常に保たれている。
伊佐神は真紫色のスーツ姿で、うすい青色レンズのサングラスをかけているのだが、その下の両目は極度の緊張のため一点を見据えたままである。
本社五階の社長室。
約百平方メートルはある室内は、用途によって仕切ってあった。
伊佐神は来客と応対するための一番大きな部屋で、デスクに向かって座っている。
英国ジョージアン王朝時代の家具様式を、現代風にアレンジしたデスクであり、上質なマホガニーの突板と本格的なグレージング仕上げが、高級感を引き立ている。
壁には備え付けの書架があり、経済の専門書から純文学まで幅広い書物が並べられている。
デスクには最新型のパソコンが二台設置されていた。
部屋の中央には八人がゆうに座れる高級革ソファに、デスクと同じ材質のテーブルが置かれている。
南に面した窓につるされたブラインドカーテンの隙間から、朝の光が差しこんでいた。
伊佐神は机上に置かれたコーヒーカップには手をつけず、ただじっと座っている。
ソファに深く腰掛けて陶器のソーサーを左手に、右手でゆっくりとコーヒーを口元に運んでいるのは、みやびであった。
「へええ、社長、いいPCパソコン使っているなあ」
突然耳元で声をかけられ、伊佐神はビクンッと身体を硬直させた。
何の気配もさせずに、いつの間にか珠三郎が伊佐神のすぐ隣に立って、机上のパソコンを見入っているのだ。
「い、いつの間にっ。
ああ、いえ、これはわたくしが、仕事で使用するやつでございます」
「社長、株式や先物のトレーディングもやっているんでしょ」
「へ、へい」
「この悪環境の中で、結構稼いでいるらしいじゃん。
たいしたものですなあ」
珠三郎はグヘヘヘッと笑いながら、伊佐神の肩をポンポンと叩いた。
血の気の多い部下が目にしたら、思わず袋叩きにしてしまうような気楽さだ。
伊佐神がなぜ年下のプータローや女子高生に平身低頭なのか。
今でも伊佐神の声がかかれば即座に武闘集団としての本領を発揮する社員は、軽く四ケタの命知らずが集まる。
それだけの力を持っている伊佐神。
だがここにいる客人二人に、まもなく現れる予定の合わせて三人は、一騎当千を凌駕するパワーを秘めていることを伊佐神は知っている。
「お、お褒めいただきやして、恐縮っス」
伊佐神は、だからこそ年下であろううと珠三郎に褒められたことがが嬉しく、頭をかいた。
「んー、そうだな。
この計算式をっと」
珠三郎は伊佐神の横に立ったまま、身体を器用にねじり、机上のキーボードを打ち始める。
不気味な姿勢のまま、その指の動きは、映像フィルムを高速回転させているような、とんでもない速度であった。
伊佐神は革張りのチェアからのけぞるような態勢で、驚愕の表情を浮かべている。
「フーン、ンンン、フフーンン」
珠三郎は奇妙な音階の鼻歌交じりで、最後にエンターを押下した。
「よいしょっと。
社長は、株式の信用取引やってるんでしょ」
「え、ええ。
わずかな資金でやすけど、テヘヘッ」
伊佐神はパソコンの画面を、食い入るように見つめている。
「ボク、株式投資は趣味じゃないから運用はしないんだよーん。
だけどね、パソコンソフト開発は趣味のひとつですう」
「存じあげて、おりますが」
「アルゴリズムを使う投資方法は多々あるけど、来週早々に相場が始まったら、そのデスクトップに〈ラブリー・みやび〉っていうアイコンを出してるから、起動してみてみて。
グフッフッ、信用取引に関わる買い建ちに売り落ち、空から売りに買い戻しを、瞬時に保証金枠いっぱいまでドンドンやってくれるよう。
向かうところ敵なし!
しかも、あまり目立たないように売買してくれるから、証券監視委員会に要らぬ腹をつつかれることもないように、ちゃーんと考えてありますよう。
社長の持ってる財力でそのソフト使えばさ、アッと言う間に、ねっ。
打ち出の小づちのように、黙っていてもワンサカと銭が積みあがっていくんだピョーン!」
珠三郎はニヤリと不敵な笑顔を浮かべ、伊佐神の肩を肘でグイグイ押した。
「えー、アタシがなんだってえ」
みやびは飲み終えたコーヒーカップをテーブルに置いた。
「みやびちゃんの、アルバイト代をアップしてもらう交渉なんだよーん」
珠三郎の言葉に、みやびの大きな瞳がキラリと輝く。
コンコン。
社長室の入口ドアがノックされ、きっちり五秒後にガチャリと開かれた。
「社長。
ナーティ白雪さまがお見えでございます」
洞嶋は一礼をし、後方に立つ巨大な来客に入室をすすめた。
「お待たせしちゃって。
本当に申し訳ないわあ、藤吉さん」
外側に開かれた入口ドアの幅いっぱいに、巨体がのっそりと入ってきた。
直後、伊佐神は間違いなく見た。
ナーティの姿が現れ、みやびと珠三郎と同空間の存在になった瞬間のことだ。
バチイッ!
その歪つな三角地帯に、あの日夢で見た、薄緑色の閃光が走ったのを。
~~♡♡~~
洞嶋は社長室に設置してある給湯室から、新たに淹れなおしたコーヒー四つを器用にトレイに乗せ応接ルームに運んだ。
テーブルをはさんで、右側に伊佐神、ナーティ。
左側にみやび、珠三郎と並んでソファに腰を降ろしている。
「失礼いたします」
洞嶋はひとつずつ、丁寧にソーサーに乗せて湯気に薫るコーヒーを置いていった。
伊佐神は胃腸が弱いため、真夏でもアイスコーヒーは飲まない。
セーラー服姿のかわいい女子高生、太った河童のような不気味な若者、そして相撲取りかと勘繰るゲイバーのママ。
秘書室長という表の顔で社長を守護してきて、早や三年。
数々の修羅場をくぐりぬけ、大抵の事には動じない肝の据わった藁人形のレイも、さすがに目の前の珍客には驚いている。
しかしそんな感情はおくびにも出さず、耽々と秘書としての役目をこなしていく。
「失礼いたしました」
洞嶋は最初に出していたコーヒーカップ三つをトレイに乗せ、お辞儀をすると社長室を退出した。
社長室は完全防音のうえ、窓はすべて防弾ガラスを設置している。
静まりかえった室内には、空調の音がやけに大きく聞こえる。
室内用の芳香剤はあるが、ナーティの香水が匂いを凌駕していた。
伊佐神はゴクリ、と喉を鳴らした。
今日、ここへ三人を集めたのは伊佐神である。
自分が口火を切らねば、と焦っているのだが思考と舌の筋肉がかみ合わず、しゃべることができないのだ。
それも、そのはず。
目の前に座る三人は、この国を厄災の危機に包みこまんとする雍和に対して、唯一撃退し葬ることのできるチカラを持つ者たちであるからだ。
この国の人々は、まだ誰も気づいていない。
まもなく経験したことのない恐怖が、幕を開けようとしていることを。
全貌を知っている、いや予知する能力を持っているのは伊佐神だけなのだ。
幼いころより勘が鋭い子だと言われていた。
勉強はできた、というよりもテストに出る問題が事前にわかってしまうのだ。
家の稼業が嫌いで、だから大学は首都圏を選んだ。
実家へ帰るつもりはなかった。
東大経済学部を卒業し、外資系の証券会社へ入社したのもその理由による。
その頃から伊佐神は、先を視ることができるチカラを自分は持っているのではないか、と思うようになっていたのである。
試験勉強の時と同じように、株式相場がどう変化していくのかが先読み出来てしまうのだ。
予知能力を確信したのは、先代組長が抗争で命を落とした時であった。
六代目組長、つまり伊佐神の実父で、たったひとりの肉親が亡くなるということを、夢の中で視てしまった。
そして夢が現実になったのだ。
稼業は忌嫌っていたが、実の父は厳しくも優しい面を持っており、伊佐神は心の底では尊敬していた。
父は子分たちからも、随分と慕われていた。
その親が、無残な姿に変わり果てる予知夢を視てしまったのだ。
血のつながった肉親の死を、事前に知ってしまう。
伊佐神はあわてふためき、取るものも取りあえず首都圏からナゴヤ市へ新幹線で帰った。
しかし、父親の死を止めることはできなかったのであった。
先を視ることはできても、未来を変えることはできなかったのだ。
伊佐神は自分の異能力を初めて呪った。
知らなくていいこと、知りたくないことでも視てしまうチカラを。
そして雍和の出現およびみやびと出会う、一ヶ月ほど前のことだ。
伊佐神は経験したことのない、全身が引き裂かれるような、想像を絶する苦痛に見舞われた。
三日三晩、高熱にうなされ病院のベッドの上でもがき苦しむ。
配下の幹部たちは寝ずにつきそうも、担当する医師は首をかしげるだけであった。
原因が不明なのだ。
幹部の中には医師にドスをちらつかせながら、なんとかしろと脅す輩もいたが、医師には点滴を打って寝かせておくしかできることはなかった。
四日目の朝。
伊佐神はまるで何事もなかったかのように、目覚めたのであった。
熱でうなされながら未来を視ていたということを、寝ずの看病をしてくれていた多賀にだけは話した。
この国が、阿鼻叫喚の地獄に変貌していくさまを、克明に説明する。
多賀は伊佐神の語る話を聴きながら、熱のせいで悪夢を観ただけだと思ったことは口には出さなかった。
普通の人に、そんな世迷言を信じろというほうが無茶であった。
伊佐神は退院後、自宅で療養しながら何度も視た夢を反復する。
父親である六代目が惨殺される未来を感知しまった時には、絶望一色に塗りつぶされた幻影しか予知できなかったのであった。
ところが今回は、さらに深い闇色が次々わいてくる中に、三つの小さな光を見つけたのだ。
光は周囲の闇が侵食しようとすると、輝きを増し、逆に闇を吸収していく。だが絶対的に暗黒の力が勝っているようであった。
光はそれぞれが勝手に動いており、自分の周囲のわずかな闇しか吸収できていないのだ。
伊佐神はそれをなすすべもなく、傍観することしかできなかった。
いらだち、焦り、憎しみといった負の感情のみが伊佐神にまとわりついてくる。
三つの光はバラバラのまま、巨大な暗黒に取り込まれようとした時だ。
「ひとつになるんだっ。
ひとつになって、戦えぇ!」
伊佐神は負の感情を振り払うように、叫んだのであった。
その声に呼応するかのように、三つの光は互いに引かれるように近づく。
光が、正三角形を作った。
三角形の各頂点となった光は、光度が増していく。
みるみるうちに、伊佐神も直視できないほどの輝きに変わった。
闇を拭い去るように、光の三角形が暗黒を吸収していくではないか。
「これは、未来を、変えられるのか?
そういうことなのか?」
伊佐神は夢の中で悟った。
「あの光だっ。
三つの光を捜しだせば、この国が地獄に変わる前になんとかできるかもしれない」
握り拳を突き上げ、伊佐神は叫んだ。
「俺の力はこのために授けられたのだ。
三つの光を捜し、闇から生まれしものを叩きつぶすんだ!」
伊佐神はそこで四日目に目覚めたのであった。
つづく
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