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第1話 異形の咆哮
妙になまぬるい風が吹く。
夏の夜の帳がおりた大地をじっとりと移動していく。
月は雲に隠れ、隙間から地上をそっと見下ろしていた。
町の灯りが見渡せる丘陵地帯なのに、音だけが遮断されてしまっている。
アスファルトも敷かれていない土の道。
幅はそれでも十メートルほどはあろうか。
電柱がほぼ百メートル間隔で立っているが、常夜灯というにはあまりにも心細い。
なだらかな坂道の両側には熊笹が生い茂り、さらにその奥には樹林が黒い影となって重なっている。
ときおり風になぶらた葉ずれの音だけが現実味をおびていた。
ゆるやかな斜面を走る車のエンジン音が、遠くから聞こえてきた。
ハイビームの強い光が、土道と密生する熊笹を浮かび上がらせる。
車は平ボディの小型トラックであった。
ときおり土くれにタイヤが取られ、荷台がきしむ。
荷台にはサビの浮かんだドラム缶がすきまなく積まれ、くくりつけているゴム製のロープが切れそうなほど伸びている。
トラックは茂みの途切れた右手奥、暗い林のなかへ進路をかえた。
何度も来ているのか、迷うことなくそのまま樹林の奥へ進んでいった。
熊笹がトラックのボディに擦られる音。
ライトに照らされた前方は、ちょうど乗用車が一台侵入できるていどの空間があり、木々の間をゆっくりと前進していく。
樹林の奥は傾斜のゆるい下りになっていた。
コナラやアカマツの間を抜けていくと、急に平地が現れた。
トラックのライトが照らす大地には、夏特有の草が群生している。
だがそこには草原に隠れるように、様々な異物があった。
いくつものドラム缶、残土、鉄くず、壊れた電化製品などである。
産業廃棄物と呼ばれる文明のひり出した汚物が、放棄されているのだ。
トラックが停車し、ライトを点けたままエンジンが切られた。
運転席と助手席から、黒っぽい作業服を着た男たちが降りてきた。
二人は無言のまま、慣れた動作でトラックの荷台からロープをほどき、中年の年上らしいひとりが荷台へ上がる。
ドラム缶を器用にかたむけ、荷台から投げ落とした。
ドウンンッ、重たい音が響く。
下で待機していた若い男が転がったドラム缶を起し、円形の底を転がすように運んでいく。
ドラム缶からは強い油のにおいが漂う。
廃油を詰めてあるらしい。
「ちょろいもんだよなあ」
荷台の男が口を開いた。
「業者から廃棄物の処理代をたんまりいただいて、後はここにうっちゃっておけば、処理代なんてかからないからよ。
まるまる俺たちの利益になるんだ」
ドラム缶を転がしていた男が下卑た笑い声で応えた。
「本当ですぜ。
どうせこんな場所は誰も近寄らねえから。
ほかの業者も勝手に不法投棄してってますからねえ」
荷台に積んでいたドラム缶をすべて地面に落とすと、二人は急いでそれらを一カ所にかためていった。
トラックのライトに浮かぶ不浄の山。
月は灰色の雲に隠れたままである。
りゅうぅ、らりぃ、る、るらぁ。
「うん?
おい、なんか音が聴こえないか」
中年の男がドラム缶を転がす手を止めた。
ららぁ、るぅ、らら。
年下の男も耳を澄ました。
るるりゅうるるぅ、るらるぅう。
「笛の音?」
二人の男はあわてて周囲を見回した。
産業廃棄物の不法投棄がみつかれば、罰金だけでは済まない。
「な、何だっ」
男たちは平気で違法行為を行う輩である。
場合によっては、暴力に任せてトンズラこくつもりで身構えた。
どこで吹いているのか、もの悲しい旋律で奏でられる笛。
ら、ら、ららららららっ。
次第に音が強くなっていく。
空耳ではなく、樹林の奥から間違いなく聴こえてくる。
笛の音のおりなす色が、変化した。
「お、おい、あれはなんだ?」
年かさの男が指さす方向、大量の廃棄物が並んださらに奥だ。
トラックの光源からはずれているため、向こう側は暗い闇である。
笛の音がリズムを変えるのと同時に、大気に変化が起こった。
地面から二メートル上方、直径八十センチほどの円形に、空気がゆっくりと回転し始めているのだ。
ギュル、ギュルリッ、と無理やり空間をゆがめるような不気味な現象に、男たちは口を開けたまま見入る。
るらるらるらあっ!
笛の音が激しくなる。
回転する大気の中心から闇よりも濃い真っ黒な気体が、シューッと流れ出した。
「ひっ」
若い男は身動きさえできずに喉を鳴らす。
と、あふれだす漆黒のガスのなかから、ヌヴァッと塊が突き出された。
「な、な、ななっ」
中年の男は腰をぬかし、地面にへたりこむ。
焼けた土に近い黄褐色の塊は、みっしりと獣毛が生えた太い棒状で、さらにもう一本現れた。
棒の先端には五本の鋭く禍々しい爪が生えている。
笛の音の鳴るパターンが刻々と変化していき、音色に合わせるように長く突きだされた二つの塊、黄色い腕が動き出した。
ギッ、グギギギッ、二本の腕の間が広がっていく。
男たちは悲鳴を上げることもできずに、蛇ににらまれた蛙のように這いつくばったまま血走った眼球を向ける。
ズブゥオン!
闇の奥から三つ目の塊が押し出された。
一抱えもあるいびつな物体。
それは黄色い日本猿の顔面であった。
いや、正確には猿人類と大きく異なっている。
大猿は燃えるような真っ赤な眼球をむき出し、なんと口元には臙脂色の嘴が突出しているではないか。
猿の顔面に、緋色の烏の嘴を移植したようだ。
異形の猿はギロリと男たちをにらむと、嘴から怖気の走る奇声を発した。
つづく
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