第3話 伊佐神興業

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第3話 伊佐神興業

 愛知県ナゴヤ市。  人口二百万人を超える政令指定都市。  その地に古くからシマを持つ博徒集団の元締め、伊佐神組はあった。  現在は極道の看板はおろし、完全に暴力団としての機能は封印されていた。  JRナゴヤ駅の北側に五階建ての瀟洒(しょうしゃ)なビルが建っている。  博徒時代の代紋ではなく、伊佐神興業株式会社として立派な社名板を表玄関に掲げている。  伊佐神組を解散し、まっとうな企業に鞍替えしたのは伊佐神藤吉であった。  伊佐神藤吉は先代である六代目のひとり息子であったが、高校卒業後に家を飛び出していた。  東京大学経済学部を首席で卒業し、地元ナゴヤ市にはもどらず外資系証券会社に入社する。  そこであらゆる金融テクニックを身につけていったのである。  伊佐神が証券会社を突然辞し、ナゴヤ市にもどったのは三年前。  六代目である実父が抗争で命を落とし、跡目争いで内部抗争が勃発する直前であった。  伊佐神は組織の正当な後継者であることを宣言し、幹部連満場一致で七代目組長に推された。  ところがである。  七代目の襲名披露が済むやいなや、新組長は突然組の解散宣言をしたのだ。   これには業界はもちろん、県警までもが青天の霹靂であった。  伊佐神は配下全員の足を洗わせた。  そこから伊佐神は、本領を発揮したのである。  投資の技術を活かし、株式投資に加え不動産売買によって正当に資金を増やしていったのだ。  投資運用技術だけではなく、天賦の才が備わっていたことは後にわかる。  その得た資金を使い、短期間で会社組織を作り上げていったのである。  暴対法が施行され業界が縮小せざるを得なくなった昨今、伊佐神のとった行動は先見の明も才として持っていたということだ。  今ではM&Aや事業コンサルタントとしても名を馳せ、伊佐神は市の経済界の若手リーダーとして注目を浴びるまでになっていたのであった。 ~~♡♡~~  鏡のように磨き上げられた黒塗りのベンツ・マイバッハが、陽射しの強い夏の午後、国道六十八号線をナゴヤ駅方面に向かって走っている。  駅の高架をくぐり、伊佐神興業ビルの地下駐車場へ入っていった。  エレベーターの前に、ドアを挟んで二十名のスーツ姿の男たちが直立不動で立っていた。  静かな排気音をたて、ゆっくりとマイバッハが停まる。  角刈りにモスグリーンのスーツを着た初老の男が、すかさず後部席のドアを開けた。 「お帰りなさいやし!  社長っ」  後部シートに座っているのは元七代目組長であり、現在は代表取締役社長の肩書を持つ伊佐神藤吉であった。  この男、昨晩女子高生にいいように翻弄されていたのはおくびにも出さず、シートから降り立った。  薄茶色のサングラスに、黒地に銀線のスーツは昨夜と同じだ。 「おう、ごくろう」  鼻にかかったドスのきいた低音で、伊佐神は出迎えた社員たちを見回す。  このあたりは前職のクセが、抜け切っていないようである。  エレベーターのドアが開く。  五階の社長室直通エレベーターである。  伊佐神は角刈りの男ひとりを従え、エレベーターに乗りこんだ。 「社長、昨晩は大変ご苦労さまでした」  約百平米ある社長室に入ると、元若頭で現在は専務という肩書をもつ多賀(たが)は、手のひらを膝につけ頭を下げた。  角刈りはごま塩で、ナイフで切れ目を入れたような細い眼、体型の割に削げた頬には一般人にはない凄味が潜んでいる。 「うん」  伊佐神はサングラス越しに多賀を見る。 「なにも社長自ら化け物退治に出向かれなくとも、この多賀が参りましたのに」  多賀は伊佐神の父親、六代目の時に盃を受けており、七代目である伊佐神を幼少時から面倒をみていた。  しわがれた声でそう言いながら、スーツの背中側からいまだに愛用しているドスを抜き出した。  伊佐神はイタリア製の革張りのソファに深く身を沈める。 「いや、アレに関しては、会社を巻き沿いにするわけにはいかない」  張りのある、低い声で言う。  多賀は額に刻まれた深いしわを、さらに深めた。 「七代目、いや、社長。  わたしゃあ六代目に盃を頂戴した時から、この命は組にささげてまさあ。  社長がまだこんなお小さいころから、わたしゃあご面倒みさせていただいておりやす。  こんなにご立派になったお姿を、先代がどんなに喜んでいなさるか。  大企業の社長さんがたが盆暮れには、よろしくお願いしやす、と頭を下げにおいでなさる。  それに」  なおも続けようとする。  伊佐神は苦笑しながらさえぎった。 「専務、いや多賀のおいちゃん。  ありがとうよ。  俺は幸せもんだな。  おいちゃんや会社の連中も、こんな俺についてきてくれて。  でもな」  伊佐神はしゃがみこんだ多賀の両肩を、しっかりとつかんだ。 「だからこそ、巻き込みたくないのさ。  おいちゃんにだけは話しちまったけどな。  闇から生まれし化け物が、今の世の中に現れ大いなる禍をもたらし、人々を恐怖のどん底に突き落とす。  そんな世迷言をいったい誰が信じるか。  しかもその出現を予知しているのが、ヤクザの元組長だぜ。  笑われて終りさ。  でもな、雍和はまちがいなく生まれ始めているんだ。  俺は何度も見たぜ、あの忌まわしい化け物が生まれ出るところをよ。  人間を丸飲みしやがるんだ」  伊佐神の身体が、思い出したかのように震える。 「今はまだ世間では誰も気づいちゃいまい。  だからその前に、やらなきゃならねえんだ。  俺の持つ『予知能力』を使ってな。  あいつらを根絶しなけりゃ、この国は破滅の道をたどっちまう。  唯一撃破できるのは、神に選ばれしツワモノのみ。  しかもその方たちを招集できるのは、この世で俺しかいねえんだ。  俺がご先祖から引き継いだこの血はな、何も未来を予知して金持ちにならんがためのもじゃねえ。  遠い昔にもよ、雍和が大量にこの国に現れたらしい。  それを予知していた俺のご先祖さん、っといっても腕っぷしにはまったく自信のねえ二本差しだったらしいけどな。  化け物退治に妖術を操る人間たちを雇って、見事に退治したちゅう伝承が残されてるんだ。  我が伊佐神家にはよ。  おいちゃん」  多賀は伊佐神を見上げる。 「俺に、万が一、万が一のことがあったら。  おいちゃん、会社のことはたのんだよ」  配下に三千人を超える社員を持つ伊佐神興業社長、藤吉はいつになく真剣な眼差しで、最も信頼する多賀に頭を下げた。 「しゃ、社長っ。  何をお気の弱いことをおっしゃる。  社長の御身に何かがふりかかる前に、このあっしが食い止めてみせまさあ」  多賀は片方の口元を上げた。 「ところで、午前中のご面談はいかがで」  多賀は言いながら、伊佐神の前のソファに腰を降ろした。  伊佐神はサングラスをはずし、脚を組む。  強面の多賀をじっと見つめ、眼を細めた。  若いころから修羅場をくぐってきた多賀でさえ、一瞬視線をそらしてしまうような、そんな眼力であった。 「おいちゃん、いや、多賀専務」 「へ、へい」 「ありゃ、だめだ」  多賀は口元に緊張感を浮かび上がらせた。 「専務の紹介ちゅうことで、わざわざこの俺が出向いてやったけどよ」 「へい」 「香港で名うてのファンドマネージャー、俺にそう説明したわなあ」 「()さんは、経済誌にも取り上げられている著名なお方ですが」 「確かに俺も顔はどこかで見たことあるぜ。  今回来日したのも不動産投資信託リートで日本に出資したい、このナゴヤ市でいい案件を探している、そう言ったよ。  ひいてはこの俺に、共同出資者として手を組んでくれまいか、とも言われた」  多賀は大きくうなずいた。 「そうです、社長。  李さんのような方と組まれれば、伊佐神興業の名前もより大きくなるってえもんですわ」 「専務、それは本心かい」  伊佐神は、ぐいっと身を乗り出した。  多賀は視線をそらしそうになるが、素面のまま腹に力を入れて耐えた。 「やっこさんの、裏の稼業をよもや知らぬとでも言うんじゃないだろうな、専務よう」  低音の声が、静かにかつ否を言わせぬ迫力で多賀を包み込む。 「う、裏の稼業」 「おうよ。  表の顔では敏腕ファンドマネージャーを演じているけどよ、奴はヤバい裏の顔を持ってる。  それこそ羊の皮をかむった狼、いや腐肉を漁るハイエナ、それが正体さ。  俺はね、自分の直感を信じているんだぜ。  今まで、はずれたことは一度もねえ、この予知能力はな」  多賀はゴクリと唾を飲みこんだ。 「まあ、専務の紹介だから義理は果たしたけどよ。  ただし、今後は一切奴らとコンタクトは取ることは許さねえ。  これは社長命令だ。  俺たちはヤクザな世界から完全に足を洗ったんだ、三年前にな。  二度と人道をはずれる行為はしちゃならねえ。  わかったな、多賀専務」  伊佐神は眠そうな半眼で、正面に座る親ほど年の離れた多賀に命令するのであった。                                 つづく
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