end of student solver

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end of student solver

 SS提携病院の、ある個室にて。  足を負傷した冴木は念のため検査入院することになり、ベッドに寝かされていた。  そのすぐそばで彼女に話しかけているのは、八剣だった。 「……お前は昔からいつも、『八剣さんなら大丈夫です』って言ってくれてたな。それが俺にとってどれだけ支えになってたか、多分、お前には分からないと思う」  自信家の彼らしくない、ところどころ言葉が詰まりながらの告白。 「昔、一緒に共通語に直す練習したよな。あの頃の方が今よりよっぽど相方っぽかったな」  冴木は彼の想いを一つ一つ漏らさず受け止めようと、静かに聞いていた。 「お前が任務に関わりたいと思っていることは、分かっていたんだ。お前が一人で何か行動してるんじゃないかっていうことも、薄々感付いてはいた。……俺は、気張って、失敗して、怖くなって。気づいたら優先順位がめちゃくちゃになっていて、お前の気持ちもないがしろにしていた……」  気まずそうに逸らされていた視線を、八剣がふいに合わせる。 「でも俺は、昔お前が一緒に頑張るって言ってくれたことが、今も支えになってる」  恥ずかしさを押し殺して、八剣は冴木に握手するための右手を差し出した。 「これから改めてやり直そう。れ、怜……」  昔のような呼び方。SSに任命されて、自分らしくもないのに大人ぶって、“相方なんだから苗字で呼ぶようにする”と決めてから、おかしくなっていたのかもしれない。そう思って八剣は久しぶりに、彼女を下の名前で呼んだ。 「はい……」  差し出された手を、目を細めた冴木が嬉しそうに取ったとき。 「……ぶふっ」  誰かの吹き出すような笑い声が、二人の空気を台無しにする。  八剣の表情がサッと代わり、個室のドアを開け放った。 「おいこら、お前ら! 病院で気配消して立ち聞きすんな!」  八剣が怒鳴り散らした相手は、方々の処理を終えてようやく見舞いに駆け付けられた綾香と海一だった。 「ごめんごめん。ついつい」  綾香はへらへらと笑っているし。 「気にせず続けてくれ」  海一は相変わらずの冷淡な無表情。  八剣は片頬を引きつらせながらも、もう怒る気力が湧いてこなかった。  病室の中に招き入れるとすぐ、綾香が「女同士の話するから、男子は散歩でも行ってて」とシッシッと動物でも追い払うように言ってきたので、八剣と海一は渋々外に出た。  綾香は持ってきた紙袋の中身を広げながら話す。 「足、大丈夫? 今も痛い?」 「……少し痛いですが、おそらく捻挫だろうと言われました。骨が折れているわけではないので、平気です」  捻挫であろうと無理に検査入院させたのは、八剣の差し金だろなと綾香はすぐに察した。ワイルドなようでいて、冴木に関しては意外と繊細で心配性なところもあるのだなと。 「一応、タオルと、歯ブラシ、肌着と、ふき取り化粧水、その他こまごましたやつ……。私セレクトで持ってきたわ」  非常に用意がいいのは、綾香も去年入院したことがあるため、その時の経験が生きているのだ。  きっと八剣ではそこまで気が回らないだろうと思い、足を悪くした彼女のために、お見舞いの品代わりに買ってきておいた。 「何か買ってきてほしいものとか他にある? 八剣くんに言いにくいものとかだったら私に……」 「ありがとう、川崎さん」  綾香のセリフをさえぎって言われたお礼の言葉は、この入院用品の用意に関してだけではけしてない。  柔らかくほほ笑む冴木と目を合わせて、綾香も笑顔を浮かべる。 「ううん。良かったね……」  八剣くんとちゃんと話せて、という言葉は、言わなくても伝わっていると思ったから口に出さなかった。  出会ってからすっと、どこか暗く、他人を寄せ付けない空気をまとっていた冴木は、八剣との和解を経て、見違えるように変わった。いつものドライな表情でも、まとう雰囲気がどこかぱっと明るくなったと思う。 「今度からは、絡まれたくらいで気絶なんてしないように、川崎さんの図太さを見習おうと思います」  ほほ笑んで言う彼女に、悪気はないのだろう。  それが分かっているから、綾香は「う、うん。まあね。アハハ……」と、なんとか笑顔で応えられた。  初めてできた、SSの友達に。  病室を追い出された八剣と海一は、時間つぶしに入院病棟の広いロビーを目的もなく歩いていた。 「……SSのペアは別に、姫と騎士ってわけじゃないんだ。俺は、冴木に怪我をさせて初回の任務を失敗してから、そこらへんのことが分からなくなっていたんだと思う。あいつを危ない目に遭わせたらいけない、俺が一人でやらないとって」  八剣は海一に聞かせるというよりも、自分の心の中を整理するように語っていた。 「あいつにも、向き不向きがある。……俺は無いけど」  ふとした一言に、自信家の片鱗を覗かせながら。 「俺たち二人がいるからこそ出来ることを、出来るやり方を、これからは探していく」  憑き物が落ちたようなすっきりした顔をして、八剣は吹き抜けの天井から見える青い空を見上げていた。  海一は、“姫と騎士”とは面白い例えをするな、と思った。そして、さしづめ自分は足に鉄球をつけられているようなペアだろうか、とも思った。  盛り上がるような話題もさほどない二人だが、八剣は最後までずっと気になっていたことを海一に質問した。 「なあ。川崎には絶対に言わないから、教えてくれよ」  何を、と問うように、眼鏡の奥の海一の瞳が動く。 「お前の出した、パートナーへの条件」  そのことか、と海一は目を伏せると、静かにこう口にした。 「……できるなら、どんな奴でもいいから、俺のことを何も知らない人がいい、と言った。家のことも、俺自身のことも」  神無月の一族の中で、SSの組織の中で。いつも何かしら色のついた目でジロジロと見られていた彼にとって。せめてSSのパートナーくらいはそんな偏見の一切ない人物と組みたいと思ったのは、彼の心が上げていた悲鳴のような望みだったのかもしれない。 「……なるほどな」  八剣は納得する。同じ名家の子息だからこそ、それはよく分かるのだ。  綾香は事前の連絡会にも出られなかったくらい直前にSSになったというから、噂話すら入る余地はなかっただろう。海一の出した希望はちゃんと通っていたのだ。  海一は、その自分の出した希望の内容を、何となく綾香には言いたくなかった。こうしてペアとして一年やってきた彼女に、今それを言ったら何となく失礼なような気がしたから。別に彼女はそれで怒りなんてしないとは思うけれど、自分の気持ちの問題として。  それはきっと、少なくとも相方が彼女でよかったと思ってるからこそ。 「もう、そういう目で見られるのはうんざりだと思っていたから、知られない限りは話すつもりもなかった」 「ってことは、川崎には自分の立場のことは自分で話したのか?」 「話したというより、話させられた」  八剣は意外そうに片眉を上げた。 「へぇ。口の立つ神無月がねぇ」 「会ってすぐの初回の任務で、怒鳴り合いの大喧嘩させられた時に」  目の前で淡々と話すこの男が怒鳴り合いの大喧嘩をする姿の想像がつかなくて、八剣はただ苦笑するしかなかった。  初任務で怒鳴り合いの大喧嘩をしてしまう無様なペアに、ではなく。氷のように固まっていた海一の心を、あっという間に溶かしてしまった彼の相方に。  そして二人は、 「いずれまたどこかで」 「どこかで」  と、大人のような握手を交わして別れた。  窓からの強い光に照らされるその二人の姿は、共にSSの組織を支える名門、誇り高き神無月家と八剣家の人間としての貫禄が、子供ながらに十分ににじみ出たものだった。  あれからしばらく経った、夏休み真っ只中の、夏の盛り。  日差しが地面を焼き焦がし、真夏を象徴するような真っ青な空が広がる、ある日。  関東支部の夏の連絡会が開かれていた。  ある塾のビルを一つ借り切り、特別な模試を装って関東支部所属のSSを大勢集める。複数の制服の学生たちが集まっても違和感のない場所と状況ということで、この設定が使われることが多いようだ。  数百人規模が収容できる、ホールを思わせる大学の講堂のような教室の入り口で。  海一は本日何度目か分からないため息をついていた。手の中のスマホに表示されているのは、海一が鬼のごとく綾香に電話を入れた履歴。それと、綾香の『寝坊したぁぁぁぁ!!!!』の悲鳴のような一通のメール。  海一がいらついたような、憂鬱なような、複雑な心境を押し込んで無表情で立っているところを、周囲の人々はチラチラと横目に、遠巻きに、見つめてくる。  単純に、背も高いし見た目が整っているから思わず見てしまう人もいるのだが、噂の神無月家の妾の子、として見てくる目も少なくはない。それだけ神無月家はSSにおいて有名だし、その中での複雑な立場の海一はより有名人でもあった。おまけに彼の姉は、これから壇上に立つ側の関東支部長である。その弟がどんなものか、事情を知っていれば気にならない人は少ないだろう。  開始時刻になり、いよいよ間に合わなかった綾香を見捨てて、海一は先に教室内に入った。SSとして割り振られている番号順に席次が決まっており、番号が置いてある。  いつまでも埋まらない海一の隣の席に、周囲の「あの神無月家長男の相棒はどんな奴なんだ」の期待の視線はなおいっそう熱くなる。そもそも、階段状のこの座席に空席などほとんどない。中段の方にある空席は単純に目立つのだ。  そしてついに始まってしまった。  職員の一人が簡単な挨拶と、連絡・注意事項を説明し終え、関東支部長の言葉に移ろうというとき。  講堂の扉が遠慮がちに開かれる。  だが、この場にいるのは全員が現役のSSである。皆が恐ろしいくらい音や気配に敏感なわけで。異変を察知して一斉に視線が集まる。  その視線を一手に集めたのはもちろん、こんな大事な日に大遅刻をかました綾香である。反射的に「あっ、すみませーん……」なんて取り繕うためだけの苦しい愛想笑いを浮かべてしまう。  最寄駅からこの建物まで泣きたい気持ちで走りながら、頭の中では「海一はこれが苦手だって八剣くんから聞いてたのに~! あーもう! うっかり! 私のバカ!」などと嘆きまくっていた。  SSの連絡会に遅刻してくるようなこのバカは一体どんな奴の相方なのか。その疑問で綾香の一挙手一投足に恐ろしい数の注目が集まる。突き刺さる視線で落ち着いて息もできないくらい。  空席が一つしかなかったので、しかもその隣には海一がいたので、綾香はすぐに自分の座るべき場所を見つけられた。  綾香が小走りでそこに向かい、着席したとき。  周囲の視線は驚きに変わる。あれが、あんなのが、神無月家の相棒なのか、と。  その証拠に、少し教室がざわめいたくらいだ。  海一は小声で綾香に問う。 「なぜ目覚ましをかけなかった」 「か、かけたのよ……。かけたかけた……」 「おい、こっちを見て言え」  隣でそう答える綾香は海一からは顔を背けている。  嘘をついていることは丸分かりだった。  学校が夏休みに入る期間は、SSにとっても長期休みに入ることがほとんどだ。大方、夏休み真っ最中でぼけていて、目覚ましをかけわすれて寝坊したのだろう。  と、その時。会場が一気に静かになる。  関東支部長である宮乃が壇上に現れたのだ。彼女は神無月家長女であり、海一の義姉でもある。 「SS関東支部の皆さん。本日はお忙しい中お集まりいただきありがとうございます。関東支部長を務めます、神無月宮乃です――」  信じられないことだが、彼女は綾香たちと二歳しか年が変わらないので、まだ高校一年生なのだ。とてもそうは思えない大人びたふるまいと貫禄、圧倒的存在感である。  本当は自分とはこんなに距離が遠い人だったんだなと、連絡会に初めて出席した綾香は驚愕をもって感じていた。何度も直接話して、「宮乃さん」なんて気軽に呼んで、あまつさえピンチの時には呼び出したりなんてして。自分が今までどれだけ、こんなに偉い人に失礼を働いていたのか。冷や汗が伝う感覚がした。  しかしながらそれよりも。綾香には気になっていることがあった。  海一の制服の袖をくいくい引いて顔を寄せさせると、耳元で極力ひそめた声で言う。 「あんたといると、ちょ~人に見られるわね。今も周りからすっごいビシバシ視線感じるわ。去年までは一人で受けてたのよね? これ。なんか、あんたがそんな澄ました顔になった理由が分かる気がするわ」  海一は心の中で、「それはお前が大遅刻をしてきたから、相乗効果でなお注目を集めているのだ」と思ったが、口には出さなかった。それを言うことすら面倒だったから。  海一の返事を待たずに、綾香のコソコソ話は続く。 「どこかで聞いた話なんだけど……。女優さんとかって顔小さいじゃない? 常に見られることを意識してる人だと、いつも緊張して顔が引き締まるんですって」  突然の、メチャクチャどうでもいい、信憑性の怪しい美容情報。  海一は一言だけ吐き出す。 「だからどうしろっていうんだ」 「なんかもーこれだけ不躾な視線があると、全身のダイエットって感じよね」  だからなんなんだ、という言葉を絞り出す代わりに、海一は再び姿勢を正して、綾香の小声を聞き取ることをやめた。  気になることがあったのかまた何度か袖を引かれたが、どうせ大したことではないと予想がついたので、全部黙殺した。じっと黙って話を聞いておくこともできないのか、と思いながら。  しばらくして宮乃の挨拶が終わり、新学期に向けての伝達事項などを職員が説明すると、連絡会は驚くくらいすぐに終わった。  以前に聞いたように、本当に顔見せの要素が強いようだ。  会が終わると、バラバラにすぐに帰っていく人もいれば、少し話をしている人たちもいる。  周囲を見回せば、こんなにたくさん自分たち以外にもSSがいたんだなと、綾香は感慨深く思う。見た目は本当に普通の、どこにでもいるような学生たち。もちろん、自分もその一人ではあるのだけれど。  そして。この連絡会が終われば、新学期の任務開始までしばらく海一に会うことはない。  一般的な家庭の子であれば、長期休みの期間は実家に帰って存分に羽を伸ばすのだろう。  綾香のような身寄りのない子たちは、ホテルを宿代わりに使って夏休みを過ごしたりするらしい。  伝聞調なのは、綾香自身何もないSSの夏休みはこれが初めてだから。去年の夏休みは足りていなかった研修や講習を受けるため、SSの訓練施設にみっちり缶詰めだった。  隣に座る海一を横目でチラリとうかがう。配布された資料に目を通している彼は、まだ帰る様子は見せていない。海一はどうするつもりなのだろう。実家には簡単に帰れないみたいだし、去年もホテルに泊まっていただけだったという。  綾香がソワソワとしていると、海一が不意にこう言った。 「……前に言っていた、お前が住んでいたところ。行くか。一応観光地なんだろう? 案内してくれるなら」 「へ?」  不意打ちの一言に、綾香はひらがな一文字しか漏らせない。 「暇だし。やることないしな」  淡々と言う海一がどのくらい乗り気なのかはさっぱり分からないが、こんなことをめったに口にするやつではないことは綾香が一番よく分かっている。 「え?! ほんとにっ?! あんたと二人で?!」 「不満か」  そう言い返す海一の鋭い視線は、彼の方がよっぽど不満があるように見えるのだが、綾香は首をぶんぶん横に振った。 「ううん、案内するする!」  綾香が一気にウキウキしたのは無理もない。もう一年以上はまともに故郷に帰っていないのだ。大好きな出身地にまた帰れるということと、あともう一つ。 「ふふん。あんたって観光地がどうとかこうとか何も知らなそうだしねー。たまには私が教えてあげないとねぇ」  と、優越感で嫌らしく笑ってみせるのだった。  あまりに底の浅い綾香に海一が向ける眼差しはかわいそうなものを見る目つきだったのだが、幸いなことに、ルンルン気分の綾香はそれには気づいていなかった。  数日後。  約束通り、海一は綾香の育った街にやってきた。  列車の到着時刻は連絡しておいたのだが、改札前に彼女の姿はない。むあっとする夏の暑さに、シャツの胸元をつかんでパタパタと空気を送り込む。  なるほどたしかに、ちょっとは名の知れた観光地と彼女が言うだけある。大きすぎない駅舎も、漆喰に黒っぽい重厚な木材を組み合わせた、古き良き和を感じさせる落ち着いたテイストだ。  一般知識として寺社仏閣やレトロな街並みが売りらしい地域とは知っているが、今回は完全に綾香にプランを投げたので、海一は何も考えていない。投げたというか、綾香が「私に任せなさーい!」と言い張ったので。  駅舎を一歩出ると、暗かった屋内から一変。ギラギラと照り付ける太陽で一瞬目の前が真っ白になる。  にわかに勢いのある風にあおられて、シャツが空気を含んだ。汗ばんだ頭皮を涼しく冷やしていく。  遠くに見下ろすようにして、観光地とは反対側の住宅街が見える。  これが、彼女の育った街。  本来なら彼女は、今もここで普通の女子中学生として、部活に励んだり、行事に参加したり、綾香のことだから勉学に励むことはないとは思うが、友達と遊んだり、もしかしたら恋愛したりしていたのかもしれない。  そう思うと、そんな場所に自分がいることがなんだかとても不思議に思えてくる。  お互い、SSにならなかったら絶対に出会うことがなかった相手なのだから。 「海一ぃ?」  背後から呼びかけられて、振り返ると綾香がいた。 「もー、改札前に居てって言ったでしょ?」  彼女は探し回っていたようで、不満げに唇を尖らせている。  そして、海一からするとかなり浮かれて見えるポーズをしていた。両手に白い何かがかかった黄土色の何かを持っているのだ。  彼女はその片方を差し出してきた。 「はい。例の知る人ぞ知るアイスキャンディ」  綾香が前に言っていた、知る人ぞ知る地元民の隠れたB級グルメ。カレー味のアイスキャンディ+練乳がけアレンジ付きである。 「……それだけは要らないと事前に言ったつもりだったが」 「いいから食べてよ」  こういうのは、少し食べたら意外と美味しいのがセオリーのはず。  しかし、海一は一口で無理だと悟った。  ねっとりした甘さにコーティングされた、異国のスパイスの香り。しかもそのスパイスも、無駄に本格派でいやにくせがある。開発段階で誰かストップをかける人間はいなかったのだろうか。  知る人ぞ知るというのも、知らない人は知らないままの方が良かったと思ったから、知ってる人しか知らないんだろうな、と海一は思った。  海一は、片手にアイスキャンディを持って反対の手でスマホで時刻表か何かをチェックしている綾香の口に、容赦なく自分のアイスキャンディを突っ込む。 「好きなんだろう、それ。俺の親切心を受け取れ」 「んんんーー?!」  両手ふさがってアイスを取り出せない綾香がくぐもった悲鳴を上げる。  喋れない綾香に代わって、海一がいつもの淡々とした無表情のままアテレコしてやる。 「ん? 『嬉しいありがとう。海一はいつも本当に親切ね』か。礼には及ばない」 「セリフ間違ってるからあっ!!」  応急処置的にスマホを地面に置いて、差し込まれたそれを口から引っ張り出す。 「あ、あんたねぇ、くれるにも方法ってもんがあるでしょ!! もう、歯がシミて死ぬかと思った!!」  知覚過敏を訴える綾香にちゃんと視線を落とすと、よく見るといつもと少し違っていることに気が付いた。  白いワンピースに麦わら帽をかぶり、髪を片方にまとめて束ね、おしゃれに胸の前に流している。薄く色つきのリップクリームを塗ってさえいた。  故郷というのはそんなに嬉しいものなのだろうか。  海一にはその感覚がよく分からないので、彼女の浮かれっぷりを不思議そうに観察するしかない。  あとそれから、少し思ったこと。  八剣は色々言っていたが、別に綾香はそんなに悪い顔立ちではない。飛び抜けた美人というわけではないのは確かだが。  じりじりと肌をこがす日差しは、連なるセミの声をより大きく聞こえさせる気がする。  仕方なく二つのアイスを一手に引き受けながら、綾香が仕切りはじめる。 「それじゃあまずはね、近くの駄菓子屋さんに行きます」 「……観光なのか? それは」  眉根を寄せる海一に、綾香はいやらしくニヤリと笑い、先を歩く。 「ふっふっふ。つべこべ言わず地元民に任せなさい!」  海一を言い負かせる、自分がリーダーになれる優越感がだだ漏れしていて、見ているこちらが情けなくなるくらい。  まぁたまには、こいつの後ろをついて歩いてやってもいいだろう。  海一は思う。  今までろくな夏はなかった。  人目にさらされる連絡会、家には戻れないので何をすることもなくホテルに缶詰。  でも今年は。  悪くない夏になりそうだ。  海一はそう思って、青空の下、自分を呼ぶ彼女のもとへ歩き出した。 <完>
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