第十一話 囮の女

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第十一話 囮の女

 座礁しないギリギリまで船を近付けると、大風は自動小銃AK-47——通称カラシニコフを手にし、船を飛び降りた。同じくAK-47を持った千眼、トカレフを持つ梅花も続いた。 「ヤリック、船の見張りを頼んだぞ。万が一襲撃に遭ったら、うまく立ち回ってくれよ。ニコライはその怪我だ、残った方がいい」 「分かったよ」  船を操作するヤリックと、ルーベンノとの戦闘で被弾したニコライを残して、三人は浜辺へ上陸した。  浜辺には生活の痕跡が見える。焚き火跡の周辺には、貝殻も落ちていた。作戦の実行日は五日前。それ以来、ここで野営をしていたということか。問題はそれが黒蛇なのか、敵なのかだ。 「私達は遭難してるんです……! 突然誰かに襲われて……もう一人の仲間は怪我をして重傷なんです。お願いです、助けてください」  潤んだ瞳で懇願するアジア人の女。オリーブ色の長い髪を後ろで三つ編みにし、薄手の服からは汚れた細い手足が覗く。土気色の顔には疲労が色濃いが、よく見れば切長の瞳の整った顔立ちをしていた。 「名前は?」 「クリス・シロハナです」 「一緒にいるやつの名前は?」 「劉秀英(リュウシュウイン)。私の部下です」  名前を聞いて大風は確信する。この女がBECの社長で、一緒にいるのは黒蛇だ。 「殺るのはもったいねえな。ウチで売り飛ばしたら良い値がつくぜ」  商売魂を発揮する千眼は、同意を求めるように大風と梅花を見た。黄龍会の人身売買組織のことだ。黄龍会はアジアから東ヨーロッパにかけて広く人身売買ビジネスを展開し、大きな収益源の一つとなっていた。孤児や難民、貧困家庭から売られた子供などを各地へ運んで売買する。用途は様々だが、若く良い女なら別枠で買い手が付く。  BECの社長が女だと知ってはいたが、これほど若く美しいことはこの場にいる誰も知らなかった。何しろ表舞台に姿を表さないからだ。もっとも大風は、女房である梅花以上に良い女はいないと思っているのだが。 「だが駄目だ。この女は有名すぎて商品にできない」 「二人とも、それ以前に黒蛇が生きてるんなら黒蛇に会って指示を仰ぐのが先だろ。まずは案内してもらおうよ」  梅花が制止し、大風と千眼はそれもそうだと冷静になった。 「じゃあ、ひとまずその秀英のところまで案内しな」 「あなた方は私を知ってるんですか……? 救助に来たのでは……?」  大風はクリスが逃げないよう銃を突き付け、千眼が彼女の両腕を後ろで縛った。女の顔には恐怖と困惑だけが浮かんでいる。大風達が何者で、何故自分がこのような扱いを受けているかも理解していないのであろう。 「誰かに襲われたって言ったな。何が起きた?」  島の奥へ向かうクリスの後を歩きながら状況を探る。 「ヘリの機長と副操縦士に襲われて、海に落ちたんです。一人はヘリの中で副操縦士に撃たれて死にました。そのあと残った全員がこの島に辿り着いて」  グスタボがカルロスを始末したという情報通りだ。 「で、秀英以外の二人はどうなった?」 「私は彼に言われて、洞窟に隠れていました。……そうしたら三日目に彼が奴らと戦うと言って出て行きました。しばらくしても戻って来ないので見に行くと、機長と副操縦士の二人が死んでいて、秀英が撃たれて重傷を負ってたんです」  彼女の声はか細く、微かに肩が震えていた。 「その機長は顔に刺青が入ってたか?」 「はい、金髪で顔に刺青が」  間違いない、一人はノアで、もう一人はグスタボだ。黒蛇はノアの暗殺に成功していたのだ。副操縦士——グスタボの方は、きっとノアに殺されたのだろう。 「そいつは間違いなく死んでるんだな? 死体は?」 「この先の窪みに捨てて、土を被せました」  クリスが左の奥に視線を向ける。 「確認しに行こう」  あの大物の息の根を確実に止められたのかどうかは、死体を見るまでは不安が残る。いずれにしても、上層部へ報告する際に死体の証明が必要になるだろう。  足を向けようとすると、クリスが立ち塞がった。 「早く秀英のところへ向かってください! 怪我がひどいんです。早く病院に連れて行かないと……!」  クリスは必死の表情で訴える。黒蛇はノアとの戦闘で深傷を負ったようだ。連絡がなかったのも、連絡を取れないほど重症か、意識がないということなのだろう。 「先に行ってくれ。俺が死体を確認する。すぐに追う」  大風は梅花と千眼にそう促し、一人でクリスが示した場所へ向かった。彼女はまだ黒蛇が部下の秀英だと信じているようだが、始末するのか生かして契約を続行するつもりなのかは、黒蛇に会って確かめなくてはなるまい。  不自然に草が被せられている窪地は目立ってすぐに分かった。簡易的に隠しただけのようで、両手で地面の草と土を掘り返すと、すぐ死体に行き着いた。  二体並ぶうちの一体は腐敗が進み、皮膚が崩れ落ちて顔は原型を留めていなかった。ウジも湧いている。もう一体は全身が血と泥に覆われ、顔はよく見えない。しかしクリーム色の頭髪と、頬の刺青が確認できる。ノアに間違いなさそうだ。とすると、腐敗している方はグスタボか。  腐敗の仕方にかなり差があるため、殺された時期が異なるということになる。グスタボは初日早々に殺され、ノアは死んでから一日も経っていないと推察する。クリスが言うように死んだのが三日目なら、それから二日は経っているからやや食い違う。  死体の写真を撮るため、大風はポケットから携帯を弄った。カメラを起動し、携帯を構える。  その時、スクリーン越しの死体の目が見開いた。大風は仰天して後退りした。  状況を理解した大風はすぐに、脇に立てかけたAK-47に手を伸ばす。しかしそれより前に”死体”の男が上体を起こし、大風の顔を鷲掴んだ。口を塞ぎ、ナイフを持った右腕を振り上げる。ナイフの太刀筋はあまりに高速で、光の筋をかろうじて視認できるほどだった。首筋に熱いものが走る。  やられた! 先に脈を見るべきだった……!  腐敗した死体と並んで埋まっている血だらけの男を見て、死んでいるという先入観に囚われてしまった失敗を悔やんだ。仲間に知らせなくては、そう思ったが、喉を潰されて声が出ない。  ——はじめは傀儡にしかならない女だと思っていたのですが、思いのほか頑固で、一筋縄では行かないことが分かりました。彼女は侮れませんよ。  黒蛇と何気なく話したときの彼の言葉が、今になって蘇る。  あの女は嘘をついている。騙されるな! 逃げろ、梅花。梅花ーー!  叫ぼうとすればするほど口の中に血が溢れた。  薄れゆく意識の中で大風が最期に見たのは、自らの頸動脈から噴水のように噴き出す血と、その返り血を浴びながら立ち上がって自分を見下ろす、刺青の男の姿だった。  クリスは北の海岸の洞窟を目指して、なるべく遠回りしながら歩いていた。真後ろにはカラシニコフとトカレフを持ったアジア人の男と女——千眼と梅花がいる。自身は腕を後ろで縛られているため体の自由は効かないし、走ったとしても、殺傷力の極めて高いカラシニコフから逃げることは不可能だろう。黄龍会のメンバーが自分を始末するのに躊躇がないことを知り、クリスは体の震えを隠せなかった。  今できるのは、なんとか秀英の死を悟られずに洞窟の前まで連れて行くことだけ。頼れるのはノアだけだ。  作戦を立てた日の会話を思い起こす。 * 「敵の人数も出方も分からない今、細かい作戦を立てても無意味だ。最低限のパターンと合図だけ決めておく」  島を歩いて地形を確認しながら、ノアはそう告げた。 「船でもヘリでも、敵が何人だろうと、できるだけ少人数に分離させた上で一人ずつ殺る。そして、順に倒している間、そのことを他の仲間に気付かれてはならない。二人で複数人を相手にするには黒蛇(ブラックスネーク)をやった時のように、油断しているところを奇襲するしかない」  クリスは納得して頷いた。  思えば秀英は油断していたのだろうか。慎重にノアから身を隠していたはずなのに、クリスを追おうとして姿を現した。自分を囮にノアを誘き出そうとして、逆に誘き出されてしまったのだろうか。 「重要なのは、黒蛇がまだ生きていると思わせること。そして俺が死んだと思わせることだ。だから俺は最後まで姿を見せない。……代わりに、奴らの前に姿を見せるのはお前だ」 「私が?」  ドキリとしたクリスは体を硬らせた。 「で、でも、いきなり殺されたら……?」 「連中は丸腰の女をいきなり殺したりはしない。まず黒蛇の行方を聞き出そうとするだろう。そうやってお前が注意を引いている間に俺が一人ずつ始末する」 「つまり私は囮ってことだな」 「当然だ。戦闘員じゃない以上、囮くらいしか役に立つところがない」  クリスは不安気に眉をひそめた。戦うことに関して役に立たないのは重々承知だ。自分は普通の人間。一方で近年のアジャルクシャンの闇組織は、まるで軍隊のような重装の武器を扱うと聞く。  私を囮にしておいてそのまま一人だけ脱出する、なんてことはないよな……?  そんな不安が過ぎったが、今は協力し合う仲間だと信じるしかない。むしろ彼が手を汚す役目を引き受けてくれたことに感謝すべきかもしれない。自分にはやはり、人を殺めることなどできない。  ならば、囮としての役割を全うしようじゃないか——クリスは覚悟を決めた。
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