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第五話 守るべき人
掴まれた腕がゆっくりと外された。振り返ってその顔を見たクリスは、心から安堵した。
「秀英……!」
遭難した当時に着ていた黒いシャツは薄汚れ、手や顔も泥で汚れていたが、変わらない爽やかな笑顔。大きな怪我はないようだ。生きていてくれたのだ。嬉しさのあまり、思わず抱擁を交わした。
「よく生きてたな。あの墜落で死んだかと! 本当に、本当によかった……」
「ええ、僕も貴方がご無事で嬉しいです」
彼はニコリと笑った。
「奴らに襲われなかったか?」
「はい。島に辿り着いてからずっと隠れてましたから。……ここは危ない。隠れ場所へ移動しましょう」
そう促され、秀英の後に続く。彼は岩場を伝って海の方へ降りて行った。陸からは分からなかったが、岩の間にちょうど空洞になっている部分があった。確かにいい隠れ家になりそうだ。
中は奥行きこそ広くないが、洞窟になっている。中に入れば、陸上からは姿が見えない。
今までの緊張を全て吐き出すように深呼吸する。ようやく生き返ったような気持ちになった。
「それにしても、今までよくマフィア達に遭遇しませんでしたね」
「いや、遭遇したさ。島にたどり着いてすぐに、機長の男を見た。隠れたから見つからなかったけど。そのあと、副操縦士だった男に襲われた」
「左に座っていた、あの……?」
秀英が驚いて目を丸くする。クリスは頷いたが、そのあとに言葉が続かない。それ以上のことは口をつぐみたかった。
「襲われて、どうなりました? 貴方が無事ということはつまり……」
当然の疑問だ。正直に事実を伝えることにした。
「私が応戦して、その男は死んだ」
「そうですか……貴方がグスタボを」
彼は意外そうに驚いていたが、クリスが殺人を犯したことには追及してこなかったのでホッとした。
「もう一人の奴も島にいたはずなんだ。だがあの日以来姿も見えないし、気配も感じない。こんな狭い島で動きがあれば、すぐに分かるはずだ。だから、もしかしてもうここにはいないんじゃないかと思って……」
「ふふ、相手はプロですよ。獲物がかかるまで何日でも隠れていられるでしょう。僕や貴方が尻尾を出すのを、今も虎視眈々と待ってるはずです」
そう言われると納得してしまう。あの男なら自分の痕跡を残さなくてもおかしくない。
「でも、これからどうしたら……」
「社のセキュリティーオフィサーに僕らの移動ルートは伝えてあるし、連絡が途絶えて三日目だ。捜索隊も出ているはずです。二人で協力してノアを捕まえましょう。そうすれば助けが来るのは時間の問題です」
秀英は力強い眼差しで言った。会社ではトラブルにも冷静に対処し、堂々と采配を進める頼もしい男だったが、それはこの状況でも変わっていない。そんな秀英に救われた気がする。自分一人では足がすくみ、これ以上動けなかったかも知れない。
「カルロスは、残念だったな……」
人柄の良い男だった。あんな死に方をさせてしまうなんて。
「ええ。残念でした。でも契約がダメになったわけじゃありませんし、無事に生還してからもう一度進めましょう」
「カルロスのこと……いやあの連中のことなんだけど、気になってたことがあるんだ。今話すべきか分からないけど」
クリスは疑問を打ち明けた。
「お前が気付いた通り、機長と副操縦士はルーベンノファミリーの者でグルだった。最初はカルロスもその仲間かと思った。でも、カルロスを撃ったのは副操縦士だった。彼はファミリーのメンバーじゃないのか? 機長と副操縦士が言い争ってる声もした……内通者とか裏切り者とか言ってた気がする」
話すうちに、状況がより鮮明に思い出された。あのときカルロスは右端に、秀英は中央に、クリスは左端に座っていた。秀英がカルロスの銃を奪って揉み合いになったあと、銃声は二発聞こえたのだった。
「最初にお前がカルロスから銃を奪った。そうしたら副操縦士が振り向いて銃を向けてきて、カルロスを撃った。確かそのときカルロスは二丁目の銃を構えて、私達に向けてきてた……座っていた位置からしてお前を狙ったんだと思う。お前は機長を撃とうとして、外したんだよな」
あの瞬間、グスタボ、カルロス、秀英の三人が三つ巴に銃を構えていた。その間、右側の機長は前を向いて操縦桿を握ったままだった。
秀英はクリスが未だまとまらない考えを口にする間、静かに耳を傾けていた。
「どうして副操縦士は私達じゃなくてカルロスを撃った……?」
それに、お前はどうして——、クリスは続けてそう出かけた言葉を呑み込んだ。
「いや、とにかくカルロスの素性は疑わしい。ファミリーと何らかの関わりがありそうだからな。戻ったら彼のことはもちろん、アデンアンドアゾフ社のことも最初から調べ直しだ。はっきりするまで契約も保留にする。今はこの場のことを考えよう」
「分かりました。今はノアを倒すのが最優先です。厳しい話かも知れませんが、僕はあいつを殺すつもりでいます。そうでないと安全は確保できないでしょうから」
クリスは頷いた。グスタボを殺してしまった自分に、秀英を止める資格はない。それに、生け捕りにして動きを封じるなんてできそうもない。自分と彼を守るためには、他に方法はないように思える。
「僕がやります。貴方が持っている銃を貸してください」
「あのさ、秀英」
クリスは先ほど呑み込んだ言葉を口にすることにした。何かが引っ掛かったまま、生死を懸ける戦いに身を委ねたくなかった。ただ心のモヤを晴らしておきたい。
「なんであのとき、副操縦士じゃなく機長を狙った? まるで、副操縦士が私達を撃たないと思ってたみたいだ」
あのとき銃を向けていたのは副操縦士で、機長の手に武器はなく操縦しているだけだった。指示を出していたのは機長だったかも知れないが、喫緊の危険があるのは今まさに銃を持っている副操縦士の方だ。抵抗するなら、まず副操縦士を撃つのが妥当ではないのか。
「それに、よくルーベンノファミリーだって気付いたな。私は、会ったことがあるのに気付けなかった。いったいどうして……? そういえば幹部の名前まで知ってるんだな」
クリスはあの男の名前——ノアという名前を口にはしていない。機内でもその名前は出なかった。秀英は、警察関係者にさえほとんど知られていない組織のNo.2の顔も名前も、元から知っていたのだ。
用意周到な彼のことだ。事前にセキュリティオフィサーなどを通じて組織のことを調べ上げていたのかも知れない。機内でファミリーの存在に気付いたことといい、彼はクリスが知らないことを知っている。
「教えてくれ、何か知ってるんだろ? 大事なことを知っているなら、お前にばかり重荷を背負わせたくない。責任者は私だ。本当は私がお前を守る責任があるのに……!」
彼は深呼吸して微笑を浮かべた。だが、切長の瞳は笑っていないように見えた。
「行きながら話しましょう」
秀英が洞窟から出るのを促す。クリスは促されるまま洞窟を出て、林の中へ戻った。彼も続いた。
「当初は貴方を巻き込む予定はなかったんです。ですが、どうしても機内で形をつけなくてはならなくなって。……結局奴を、ノアを逃してしまいましたが」
後ろから、秀英が独り言のように話すのが聞こえた。
「色々考えました。……でも、ダメですね。どのシナリオを描いても、貴方はいずれ僕の正体に行きついてしまう」
秀英の声はやや低く静かになった。
「クリスさん。貴方は良い人ですね。貴方は僕が守ります……なんて、もう少し上司と部下の美しい師弟ごっこをしていたかったなあ」
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