第七話 最期のあがき

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第七話 最期のあがき

 ノアは自らの拳銃を腰にしまい、倒れた秀英の体を乗り越えて一歩クリスの方へ近づいた。鷹の目が真っ直ぐ自分を見る。再び恐怖の淵に立たされた。  相対する姿には頭の天辺から爪先に至るまで、一ミリの隙も見られない。半袖のシャツから覗く鋼鉄のような重々しい腕は、コブが盛り上がり筋が浮き立つ。  無理だ、と分かっている。自分が足元にも及ばない、闇の世界の怪物だ。だがここで彼を倒さなくては生きられない。  怒りが僅かに恐怖を上回り、自分を奮い立たせることができた。  隙がなければ作るしかない。地面に落ちた小石や枝を手当たり次第に投げる。投げながら距離を詰めた。ノアはそれを片手で払い除けた。防ごうとして視界が遮られたところで、クリスはベストの内側からグスタボのナイフを抜いた。空いた左脇腹目掛けて刺す。  あっさりと交わされた。ノアは感心したように両眉を小さく上げて見せた。  クリスは向きを変え、体を回転させながら軽いパンチでフェイントをかけた。隙を見てナイフを差し込む。不可能と分かっていても。それはまるで、水から上げられた魚が体を跳ね返らせて逃げ場を求めるような、鳥についばまれた虫が最期の瞬間まで手足を動かし続けるような、生への執着だった。  ノアはナイフを差し出されても両手で払う。クリスの右腕を掴み、捻って前方へ突き飛ばした。彼女が体勢を直しては攻撃に転じ、ノアはまた弾き返す、それを繰り返した。  彼が攻撃を受け流すのみで反撃してこないことを疑問に思う前に、いよいよ体が動かなくなっていた。大粒の汗を流し、子供でも避けられそうなスピードでナイフを振りかざす。  背後を取ったと思った瞬間、ノアは後方に向かって高く蹴りを突き上げた。重みのある足が、避けることを考える暇もなく高速でクリスの顔面へ迫る。全ての終わりが頭を過ぎる。しかし、その蹴りは当たらなかった。その足は顔の数センチ手前でピタリと止まった。代わりに風圧だけが顔を撫でる。 「すごい執念だな。まるで獣だ」  感嘆と呆れが入り混じった調子でノアが言った。冷静沈着で知られるクリスが獣と呼ばれるなど、会社では考えられなかった。 「落ち着け。殺す気はない」  クリスは答えず、荒い息をした。当然その言葉を信じていなかった。  一度距離を取り、息を整えようとした。連日の疲労の蓄積も重なり、クリスは立っているのがやっとの状態だった。  ノアはただ、彼女の体力が尽きて抵抗できなくなるのを待っていれば良かった。彼女の様子を見れば、限界が近いのは明らかだったからだ。 「こいつの正体を知りたくはないか?」  ノアは秀英を顎で指した。クリスは目の色を変えた。  彼はナイフを取り出し、うつ伏せに倒れている秀英のシャツを切り裂いた。 「こいつは黄龍会(ファンロン)の構成員だ」  名前は聞いたことがある。黄龍会はアジアから東ヨーロッパにかけての広域で活動するマフィア集団だ。アジャルクシャンの闇組織とも取引があると聞く。唐突にそのようなことを告げられても信じられない。  クリスは切り裂かれたシャツの間からその背中を覗き込んだ。背一面に、口を大きく開けこちらを睨む、見事な黄色の龍が彫られていた。肌を見る機会などないので当然だが、そんなものが彫られていることは初めて知った。 「ついでに、お前が契約しようとしていたアデンアンドアゾフも黄龍会がバックにいる。表で健全な商売をするためのフロントカンパニーだよ」 「そんな……クリーンな会社だと。弁護士に調べてもらったのに」 「経歴や素性なんていくらでも書き換えられる。金さえあればな」  黄龍会の構成員は皆、シンボルである黄色の龍を身に付けているという噂がある。エリート街道を歩んできたはずの秀英の、似つかわしくない刺青を見てしまった以上、急にノアの言葉が信憑性を帯びて聞こえ始める。  ノアは秀英の体を探り、武器を押収していった。遺体を仰向けに転がして、シャツの胸ポケットから何かを出したとき、彼は顔をしかめた。無線機のようだが、中央に穴が空いていた。先ほどの銃弾が当たったのだろう。  クリスは、ノアが遺体を調べる隙を見逃さなかった。彼が位置を変えてしゃがみ、背中を見せるや否や、渾身の力を両手に込め、ナイフを向けて突進した。  ノアは立ち上がると、振り返ってクリスの両手を掴み、下へ落とした。ナイフを掴む腕の間に自分の両手を入れて捻り、いとも簡単にナイフを奪い取った。クリスは後ろへ跳ぼうとしたが、今度はノアが腕を掴んで離さなかった。  クリスは空いた左手の拳を叩き込み、牽制する。ノアはナイフを持った右手で体を庇うが、ナイフで彼女を傷付けようとはしなかった。  それを防御する隙をついて、クリスを掴む彼の左腕の肘を、全体重を乗せて下へ押す。それでも腕は金属棒のように動かない。  無力感に襲われ、一気に呼吸が尽きた。 「殺しに来たんじゃない」  ノアはその言葉と共に腕を離した。クリスはよろめきながら後退りして、肩で息をした。彼は敵意がないことを証明するかの如く、地面にナイフを投げ捨てた。 「大事なことを教えてやる。ここで俺を殺せばお前は死ぬ。お前を殺しても俺は死ぬ。つまり、協力を持ちかけたい。話を聞いてくれないか?」  クリスは彼を睨みつけたままナイフを拾い、距離を取った。確かに”今”殺す気はないようだ。秀英もそうだった。何らかの意図で自分を生かしておいたようだが、事情が変わり、利用してから殺そうとした。今でなくても、いずれ——。  もっとも、これ以上動けない今は、避けられる殺し合いは避けるのが得策だろう。 「……今持ってる武器を全部私に差し出せるか?」  恐る恐る尋ねた。 「それで納得するなら無論」  ノアは躊躇なく了承すると、次々にポケットから手榴弾や催涙弾を目の前に投げた。腰から拳銃二丁も外して投げる。そして緑褐色のシャツを脱ぐと、その下に隠されていた予備の弾薬やナイフを入れたベルトも外して投げた。  シャツの下に現れた筋骨隆々の肉体は日に焼け、数々の死戦をくぐり抜けたことを窺わせる銃創や切り傷がいくつも刻まれていた。筋肉の繊維まで透けて見えるような、無駄の一切ない体は、まさに闘うために作られた体のようだ。  彼がズボンのベルトとボタンも外し始めたので、クリスは思わず赤面した。 「分かった! もう分かったから! 話を聞くよ」  ノアが所持していた武器に秀英から奪った武器を加えると、ちょっとした武器の山が出来上がった。それらを両手で囲い込むように自分の足元へ寄せ、ノアから五メートルほど離れた木の根元へ腰掛けた。彼も地面に腰掛け、話し始めた。 「お前とは前に会ってるな」 「忘れるもんか」 「なら話は早い。まずは、その男をうまく誘き出してくれて感謝する。おかげで始末できた。それにグスタボを殺ってくれて助かった」  この男に感謝される謂れなどない。そんな意図はなかったし、秀英を殺して欲しくなどなかった。むしろあの時は全力で止めに入りたかった。グスタボだって、殺したくて殺したのではない。怒りが沸々と湧いてきたが、クリスは口を硬く結んで堪えた。 「ん……? グスタボはお前の部下じゃなかったのか? 秀英はどうしてお前と戦ってた? カルロスはルーベンノファミリーなのか?」  分からないことばかりで、疑問が次々と溢れた。 「アデンアンドアゾフのカルロスは、俺達の協力者だ。俺は長らく敵対勢力である黄龍会の重要人物、黒蛇(ブラックスネーク)を追っていたが、カルロスのおかげでようやく、秀英という表の顔に辿り着いた。そして、そいつを炙り出して始末するはずだった」  ノアは淡々と話し続けた。 「黒蛇はうまくBECに潜入して要職に就いたことで、BECを内側から利用できるようになった。奴らの目下の狙いは、北アフリカとヨーロッパを繋ぐルートを確立させること。BECがアデンアンドアゾフを買収すれば、黄龍会は、表で堂々と使える地中海の足場を持つことになる」  クリスは青ざめた。彼の言うこと——秀英が黄龍会の構成員であることと、アデンアゾフも黄龍会のフロントカンパニーだということが本当なら、この取引が成立していれば、BEC社は反社会組織の片棒を担ぐことになっていた。  アデンアンドアゾフがBEC社の一部になれば、彼らの違法な物資を、通常のヒトやモノの行き来に紛れ込ませて堂々と運べる。「世のため人のためにならないビジネスは決して行わない」という、BEC社の基盤を揺るがす事態だ。 「俺達は何としても奴らを阻止したい。契約を結ばれる前にカルロス、グスタボ、俺の三人で奴を囲み、人目に付かないよう事を運んだ後、船で待機している仲間のところへ戻る手筈だった。……だが、追い詰められたのは俺の方だった。グスタボは黄龍会に寝返っていたんだ。機内であいつがカルロスを撃つまで気付かなかった」  彼は眉間に皺を寄せ、血管が浮き出るほど握り締めた拳を見つめた。 「こちらの計画は筒抜けだった。奴らはそれを逆手に取り、俺の首を取りに来ていた。機内で俺を始末して、何食わぬ顔でお前と契約を結ぶつもりだったようだ」 「秀英達の誤算は、お前を殺し損ねたこと——ってことか?」 「ああ」 「じゃあ、最初からお前達の目的は私じゃなかったのか?」 「違う」  自分がターゲットではなかったことに、クリスは内心胸を撫で下ろした。ヘリに乗っていた自分以外の四人の言動が、これで全て繋がった。  二つの組織の抗争に巻き込まれ襲撃を受けた形だが、結果的に契約相手の正体が明らかになったのは幸いだったと言わざるを得ない。もし秀英に誘導されるまま契約していれば、クリスは知らずにマフィアに加担することになっていただろう。  反社会勢力に協力しないことを、これまで全社通して徹底させてきたが、それは同時に従業員を危険に晒すことを意味する。それにも関わらず、マフィアと繋がっていたことが世間に明るみになれば、これまで築き上げてきた信用もブランドも地に落ちる。会社の理念が根本から揺らぎ、従業員からの信頼も失い、会社は崩壊することだろう。少なくともクリスは、二度と同じ椅子には座れない。  ——まさか黄龍会が社内に入り込んでいたなんて。あれほど注意してたってのに。戻ったらもう一度社内を調べないと……。 「話はここからだ。十中八九、遠くないうちに黄龍会の仲間がここへ来る。黒蛇を迎えに、そして俺達を始末しにだ」 「どうして分かる?」 「俺はリゾート近くの海上に仲間を待機させていたが、奴も仲間を近くに置いているはずだ。黒蛇は無線で仲間と連絡を取れる状況にあったようだから、今頃この島へ向かわせていることだろう。黒蛇の連絡が途絶えた今、仲間が異変を察知するのも時間の問題だ。……一方で俺の部下四人はヘリの通信で俺の状況を把握していたはずだが、未だに助けに来ないところを見ると、すでに黄龍会に殺されたと見ている」  ノアは歯を噛みしめ、悔しさをにじませた。ここへきて、ルーベンノファミリーが黄龍会に追い詰められる姿を見るとは思わなかった。黄龍会とはそれほど力を持った組織なのだろうか。 「分かってると思うが、この島は完全な無人島。こうして皆あの世へ行った今、生き残ってるのは俺達だけだ。黄龍会を倒すために組まないか。ついでに奴らから乗り物を奪ってここから脱出できる」 「悪いけど、協力はできない」  クリスは冷静に、相手を刺激しないよう礼節を持って断った。  犯罪組織に対抗するために犯罪組織に加担するなど、本末転倒だ。会社のポリシーを維持し続けてきたクリスにとってはできない選択だった。かといって、武器まで捨ててきた男を見殺しにできる冷酷さも持ち合わせていない。 「社のポリシー上協力はできないが、危害も加えない。じきに私の捜索隊が来るはずだ。そうすれば二人とも救助される。お前の正体は言わない。何も知らなかったことにする。それが私のできる最大限の譲歩だ」  そう伝えると、彼は鼻で笑ったように見えた。 「本当に捜索隊が来ると? そもそもこの旅行をお膳立てしたのは黒蛇だ」  あっ……、とクリスは唇を噛んだ。ノアの言う通りだ。最初からこの取引は秀英に仕組まれていたのだ。本来ならとっくに会社が救助要請をしているはずだが、秀英が救助要請をさせないための工作をしていたとしてもおかしくない。それに取引相手のアデンアンドアゾフも黄龍会の息がかかっているなら、秀英が手を回して口裏を合わせることも容易だ。 「これから最初に島へやって来るのは、間違いなく黄龍会だ。お前は真っ先に殺される」  ノアは無表情のままだが、声色にはやや苛立ちを含んでいた。 「じゃあ、ここで奴らに抵抗するしかないってことか……?」 「だからさっきからこうして頭を下げてる」 「どこが?」  いつ頭を下げたつもりなんだろう……。と考える前に声に出てしまったが、取りあえずスルーした。 「分かった。協力しよう」  クリスは頷いた。
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