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第八話 鳥と魚と狩人
計画を立て準備をすると言うノアと一旦別行動を取り、クリスは満身創痍の体を引きずりながら自分の野営地へ向かった。彼のことはまだ信用していない。これまで敵対してきた仲だ。向こうもそう簡単に歩み寄る気はないだろう。協力などと都合の良いことを言いつつ、利用するだけのつもりかも知れない。
戦う術を持たないクリスが一人で黄龍会に対処するのは不可能だから、今は提案に応じる以外の選択肢はなかった。だが、一時だけの協力関係と割り切るつもりでいる。
ルーベンノファミリーと黄龍会は、共に地中海ルートを求めている。つまり、黄龍会を倒してもルーベンノファミリーがとって替わるだけだ。犯罪組織が勢力を広めることには変わらない。BEC社としてはどちらも望ましくない。
黄龍会を倒したあと、ルーベンノファミリーが台頭することは許したくない——が、今はその策を考えるよりも生き延びることだけを考えよう。
野営地から更に南へ移動し、南西の海岸へやって来て岩場へ降りた。あまり波の来ない潮溜りを探す。歩いていると、周りを岩礁に囲まれた狭いプールのような地形を発見した。ここでいいだろう。——クリスには、一つどうしてもやらねばならないことがあった。
波の届かない岩場に武器を置き、衣服を全て脱ぎ捨てる。脱いだ服を海水に浸け、洗った。
この三日間着続けた服は、血、汗、泥にまみれていた。放置すれば感染症のリスクもある。病院へは行けないのだから、島では体調を崩さないよう最新の注意を払う必要があった。
衣服は水を切り、日当たりの良い岩の上へ並べた。こうしておけば、地中海性気候のおかげで数時間で乾くはずだ。太陽は南中から西へ傾いていた。おおよそ午後二時〜三時くらいだろうか。
もう一度水の中へ戻り、今度は自分の手足と髪をよく洗った。島での生活の中で腕は切り傷だらけになっていたし、秀英(シュウイン)から逃げ回った時に膝を擦り剥いていた。塩水が染みるが、手で擦りながら血と泥を落とす。胸下ほどまでの長い髪には落ち葉や小枝が挟まっていて、放置すればノミの良い住処になってしまうだろう。指で一本一本ほぐすように洗った。
そしてぼんやりとスカイブルーの大洋を眺める。この三日間、つい先ほどまでずっと、誰に襲われるか分からない恐怖と戦っていていたのがようやく終わりを迎えた。ひんやりと心地良い水に体を包み込むと、活力が湧いてくるような気がした。優しい波が体を撫でる。
遭難していることに変わりはないのに、広がる海を見ていると心が穏やかになった。自分の力の無さを思い知らされているにも関わらず、今となっては逆に開放的で心地が良い。ここへは誰からの——役員からも、株主からも、世論からの非難も届かない。一人でここにいる間は、BEC社のCEOではなくただのクリスだ。財産も地位も、ここでは何の役にも立たない。あの鳥や魚と立場を同じくする、一匹の弱い存在だ。
カモメが水面すれすれを滑空する。水面を切り裂くような水音がしたかと思うと、カタクチイワシを口ばしに咥えて空へ舞い上がった。思わずカモメに対して笑みがこぼれた。なんという動体視力と敏捷性を持った狩人なんだろう。
ザッと足音が聞こえた。疲れを癒すように波に身を委ねていたクリスは、反射的に身をすくめた。襲われた記憶が蘇り、開放的な気分は一気に緊張状態へと引き戻された。
上から影が自分の姿を覆うのを見て、背中越しに振り返って頭上を見上げた。岩場の上から、ノアが姿を見せた。彼は足下を見てクリスの姿に気が付くと、きまりが悪そうに眉を潜めた。クリスも自分が全裸でいることに気付き、目が合ったまま硬直する。
ノアはすぐに顔を背けた。
「後で北の高台に来い」
「分かったから早く行け!」
クリスが睨むと、彼は岩の上から姿を消した。
程なくして、長袖の白いシャツが空から手元へ降ってきた。
「洗濯済みだ。……言っておくが、気まずいのはお互い様だからな」
思わぬ気遣いを受け、少し彼を見直した。
着替えが手に入ったので海から上がり、その大きめのシャツを体に巻き付けた。ほのかに香水の匂いもする。
次は食料の確保だ。三日前から小さな木の実をいくつか口にしただけで、空腹を通り越して何も感じない。
カモフラージュとして使っていた魚網から枝を外し、魚が集まりそうな岩陰に網を沈めた。折を見て引き上げるつもりだ。
今度は喉の渇きを思い出し、バケツを用意して水を汲みに池へ向かう。
池の水位は初日よりも大幅に下がり、小さな水たまりを残すばかりとなっていた。乾燥している気候なのだから仕方がないが、人が水無しで生きられるのは三日程度と言われれており、遭難中は水分の確保が第一優先だ。工夫すれば海水の蒸留もできないことはないが、時間がかかる割に得られる水量は少ない。黄龍会との決着を付けるまで、水が持つことを祈るばかりだ。
水分を補給したところでふと、ノアが北の高台に来るよう言っていたことを思い出した。クリスは足先を北東へ向けた。未だ島の地形を全て確認し切れていない。特に北側は未知のままだ。今のうちに地形を見ておくと同時に、ノアがどのような準備をしているのかも確認したかった。
高台はすぐに分かった。北へ行くに連れて勾配が急になっており、樹木の密度が薄くなっていた。途中で振り返ると、すでに島の南西半分は見渡せる。そのまま数十メートル先の山頂へ向けて足を運ぶ。
「うわっ!」
一歩踏み出した瞬間、突然足が自分の意思と無関係の方向へ引き上げられる。左足に上向きの力がかかったため、尻餅を付いて仰向けで地面に倒れた。
突然の事態に頭が混乱する。周囲に人影はない。宙に浮いた左足首には立派な蔓が絡みついており、体半分が宙に浮いた何とも情けない格好になった。
理由は簡単で、『くくり罠』にかかったのだ。クリスだって野営地の周りに罠を仕掛けていたのだから、あの男がそうしない筈もない。
腹筋を使って体を起こし、足首の周りの蔦を取り外した。体を洗ったばかりだというのに、また服も体も土だらけだ。クリスはため息をついた。
そうして顔を上げると、ノアが自分を見下ろしていた。
「わっ!」
クリスは二度目の悲鳴を上げた。いつの間に目の前にいたのだろう。この男が現れるとき、必ずと言っていいほど気配がなく、それが圧迫感を抱かせる。
「……良い罠だな」
クリスは罠にかかった恥ずかしさを取り繕った。
「鳥を捕まえるつもりで仕掛けたんだが、人間にも十分使えそうだな」
「あ、そう。ところで用は何?」
「一度計画をシミュレーションしたい」
それから二人は三時間ほどかけて島を歩き、行動パターンを確認した。計画の段取りを確認した後、それぞれの野営場所へ戻った。
岩蔭に仕掛けた網を引き上げると、数匹のイワシやハゼ、エビが掛かっていた。十分カロリーを補給できる。
イワシ三匹、ハゼ二匹、手のひらサイズのエビを一匹ぶら下げて、浜辺へ戻った。大きく平たい岩をテーブルのように使い、食料を並べた。まともに食事を取るのは三日ぶりだ。ようやくご馳走にありつける。まずは火の準備だ。
火にくべる薪と、乾いた木の枝を二本用意した。細い枝の先端をナイフで削り、もう一本の太い枝には切れ込みを入れた。細い枝を両手で挟み、先端を太い枝の切れ込みに合わせ、素早く左右に回転させる。順調に木屑が溢れ始めた。
しかし序盤は順調だったものの、木屑が増えるばかりで肝心の火がなかなか点かない。無心で枝を回転させている間に、空はすっかり赤く染まっていた。
やり方は間違ってない、よな?
不安を覚えながら枝の先端を触ると熱い。発火する手前の状態まで来ていると思われる。クリスは首を傾げた。すると横から手が伸びてきて、薄く削った木を差し出した。
「火力と火種が足りてない」
そう言われ、ノアから火種の木を受け取った。彼はクリスの手にした着火用の道具に手を伸ばし、交代を促した。
一人では行き詰まっていたので、頷いて彼に替わった。すると数十秒で煙が上がり始め、火が点いた。
ナイフで魚の頭と内臓を取り除き、棒に刺して火にくべた。ノアは持ってきたオリーブや木の実を投げて寄越した。彼も魚や二枚貝を獲ってきたようだ。分け合う雰囲気だったので、クリスも自分が獲った魚を提供した。
野営をするなら二人の方が格段に効率が上がることが証明された。
焚き火を挟んで反対側に流木を置き、腰掛けた。彼はスズキや貝類を大きめの葉に包んで火の側へ置き、蒸し焼きにした。
かつて自分を殺そうと狙っていた殺し屋の男と、こうして火を囲むことには強く違和感があった。その男が目の前にいるだけで重圧を感じるので、クリスは彼から間合いを置き一挙一動に注意しながら食べた。
互いに無言で僅かな魚と木の実を貪る。久々の食事は、落ち着かないものになった。
火はパチパチと静かな音を立てながら、オレンジ色の小さな火の粉を飛ばしている。優しく揺らぐ炎が、すっかり暗くなった海岸で二人の姿だけを照らした。
火の加減が良い頃合いになった時、ノアは葉に包んだスズキを焚き火から外し、クリスに食べるよう促した。
蒸しあがった葉を手の中でそっと開くと、魚介の香りが溢れ出た。ふうふうと息を拭いて冷ましながらかぶりつくと、天然の出汁による風味が口いっぱいに広がる。
「美味しい……」
思わず独り言がこぼれる。無人島とは思えないご馳走に、一時の心が満たされた。
焚き火を挟んだ向こう側に座る怪物。クリスは横目でチラリと彼の様子を窺った。
赤く揺れる光が俯くその顔に影を作る。金色の前髪が伏した目の上で揺れている。こちらを見ていないが、五感を駆使して注意を払っているに違いない。
前にもこんなことがあった気がする。今と状況は全く違うが、同じ気持ちを味わった。あれはいつだったろうか。
記憶が八年前まで巻き戻る。
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