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自殺車両
残業を終え、クタクタになりながら終電に乗り込んだひとりの男。
この時間には珍しく車両には人が多く、座れる座席が人ひとり分のスペースしか空いていない。
香水臭い水商売の女と、酒臭い禿げたオヤジの間に身を埋め、瞳を閉じて苦境を耐える。
「なぁ、こんな生活いつまで続くんだぁ?」
電車のどこかから声がする。
「こんな時間まで仕事なんてありえねぇだろ」
最初は気の狂った社畜がブツブツ文句を言っているのだと思っていた。
「家族を食わせてるのは誰だって話だよなぁ?
お前のおかげで贅沢が出来ているのに、誰も評価してくれないなんておかしいよなぁ?」
それは独り言ではない、誰かに語りかけるような口調だった。
あまりに声がうるさいので、目を開けて声のする方を睨むと、そこにはひょろ長で頬の痩けたスーツ姿の男が立っていた。
男は延々と、少し離れた席に座っている中年の男に話しかけているが、中年の男は無視しているのか寝ているのか、目を閉じて項垂れている。
男はしばらく話しても反応がないことを確認すると途端に黙り、そしてまた隣の人間に話しかけだす。
その話は、まるでその人間が抱える生活の不満を理解しているような口ぶりで不気味だった。
また1人また1人と男は話しかけていく。
少しずつ俺の方に近づいてきていた。
男には独特なオーラがあり、近づいてくるにつれ気分が鬱々としてくる。傍に居られるだけでなんだか死にたくなってきた。
しばらくすると、隣のお水の女に順番が回ってき、男が何度もしたように話しかけだす。
(やっぱり俺以外には聞こえていないのか…)
「なぁ…その手首の傷、今日も増えるんだよなぁ…」
男の話し声に最初は無視していた女も、しばらくすると明らかに反応が変わっていき、仕舞いには泣き出してしまった。
周りの乗客が冷たい目線を彼女に浴びせている。
彼らにはきっと、この死神が見えていないのだろう。
「泣いても誰も助けてくれねぇよなぁ…」
女は1度頷いた。
男は、俺が知る限り5人ほどに声をかけて回ったが、声に反応したのは彼女が初めてだった。
「もう全て投げ出したいよなぁ…終わりにしたいよなぁ…辛いよなぁ逃げたいよなぁ…」
男が女に死を唆している事はすぐに分かった。
俺は彼女の動向を注意深く見守った。
電車のアナウンスが鳴り、そろそろ次の駅で停車するらしかった。
車体はスピードを緩め、流れる看板や自販機の光が徐々に遅くなっていき、車体が完全に止まり、ドアが開いた。
「決めた…」
彼女は一言呟いて電車を降りた。
駅のホームに震えて立つ彼女は、通過する特急列車に飛び込むつもりなのだろう。
本当に死ぬのだろうかと心配して見ると、
男がゆっくりと彼女の背後に近づいて、顔を覗き込みながらまだ何か話し続けている。
これはダメだ…。
俺はどうすることも出来ず、席に座ったまま動くことが出来ない。
それがとてつもなく恥ずかしかった。
電車が近づいてくる。
男は、どうしようか踏ん切りのつかないで泣きじゃくる彼女の背中を強く押して電車に突き飛ばした。
電車にはねられた彼女は、視界から素早く飛んで消えた。
男は電車の中に戻ってきて俺に近づいてくる。
(俺の番か…)
「なぁ、なかなか会えない子供さん元気かなぁ…奥さんも酷い人だよなぁ…」
俺は目を閉じて歯を食いしばった。
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