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肉塊
今年の四月から数名の教師と一緒に新しく赴任してきた用務員の男。
学校の用務員の仕事は、備品の整理、学校中の機器の不具合の修理や、古くなったものの取り替え作業、花壇や植え込み周辺の掃除に管理など多義に渡る所謂なんでも屋さんだ。
「上坂さん、すみませんが3年4組の蛍光灯がひとつ切れかかっているみたいなんで変えといてもらえませんか」
放課後、用務員室でニュースを見ていると、訪ねてきた教頭先生にお願いされる。
「3年4組ですねぇ…わかりました、変えておきます」
倉庫から脚立と新しい蛍光灯の箱を持ち出し、階段を上る。
初老の体にはなかなか辛いが、この歳でも働けることは仕事好きの男にとって嬉しいことだった
し、昔から子どもに関わることが好きな彼としては現在の職場は天職と言えた。
(3年4組〜…あぁここか…)
教室のドアを開け、一度電気を付けてみる。
確かにひとつチカチカしていて教室が部分的に薄暗い。
古い蛍光灯の下に脚立を立てて登ろうとした時、男はあることに気がつく。
教室の後方の端の席、机の上に肉の塊が置いてあるのだ。
銀のトレーが敷かれており、人為的なものに違いないのだが。なんだこれは…?
よく見ると、血に濡れた赤い肉塊は、血液が循環しているのか痙攣しているのか、所々脈打つように動いている。
「なんでこんなところに肉が…」
(この肉…焼いて食ったら美味いのかな)
冷静に考えれば、何の肉かも分からないブヨブヨした不可解な物を口にするなんて思いもしないだろうが、
多分あの肉を前にすると、みんな誰でも口に含み喉に通す妄想をするだろうと思わせる程の、
それだけの魅力が、謎だがあの肉にはあった。
男は蛍光灯の付け替えを素早く終わらせ、周囲に人気のないことを確認すると、肉を持ち帰った。
用務員室の冷蔵庫で保管している間、急激な温度の変化に弱いのか、肉は赤色から紫色へ変化し、ブヨブヨ感は少なくなって肉の痙攣も見られなくなった。
帰宅。肉を捌いて焼いてみることに。
薄く切ると、ちょうどレバーのような見た目をしている。が、肉自体レバーではないだろう。
焼いていくと、香ばしい匂いが部屋に漂った。
妻も食べたいと言い出したので、一緒に食べることになり、二人で一口目を頬張った。
これがなんとも美味い。
なかなか噛みごたえがあり、噛めば噛むほど満足感が得られた。
ちょうどひとつあった肉塊を夫婦で食べきり、
それでも食い足りず、冷蔵庫の適当な肉で焼肉の続きをしてみたが、あの肉ほどの美味しさは
感じられず、男は次第にイライラしていた。
次の日の同じ時間帯、3年4組の教室を覗いてみると、昨日と同じ机の上に、同じ量だけの肉塊がトレーに乗せて置いてあった。
男は大喜びして持ち帰り、今度は妻に内緒で焼いて食った。
独り占めできた幸福感と、食っても食っても飽きない魔法の肉に舌鼓を打ちつつ、一緒にビールなんかを飲んでしまえばここ一週間の疲れが泡に弾けて飛んでいくようだった。
次の日も、また次の日も肉を持ち帰り、毎日置いてある肉の出処など考えもせず、男はあっという間に肉の虜になってしまった。
「上坂さん…あの、最近体調とか大丈夫ですか?」
校長先生に呼び出され、何事かと思って校長室に向かって言われたことがこれだった。
自分の体調の心配をしてくれるのはとてもありがたいが、わざわざ部屋に呼び出してまで聞くことなのか。
廊下ですれ違う時に挨拶代わりに交わすようなちょっとした雑談だろうそんなもの。
「えぇまぁ」
男はあの肉を食べ始めてから寝起きが楽になり、体も軽くなったと実感しているが、傍から見て彼の容姿は酷く変わっていた。
「上坂さん、鏡見てください」
校長に渡された鏡に映る人物をボーッと見る。
髪はボサボサで目は赤く腫れ、歯は喫煙者のように黄色い。
「それとですねぇ、近隣の住民の方からも苦情というか何と言うか…。あなたが下校途中の子ども達を怒鳴っているとか…ある人なんかは暴力を振るっていたなんて言うもんですから」
容姿の急な変貌に、近所に流れる悪い噂。
人柄もまるで別人のように周りには見えているようだ。
「いや、そんなこと…そんなことはァ…」
口からヨダレが垂れてくる。
あぁダメだ。
男は我慢できなくなり、話の途中に校長室を飛び出して、走って3年4組に駆け込んだ。
いつもの席のいつもの量の肉…。
男はどうしても耐えられなくなり、トレーの血で濡れた赤い生肉に齧り付いた。
走って後を追ってきた校長先生に
「何やってんですかあんたは!」
と叫ばれるまで、男は正気を取り戻せなかった。
遠くから女の子の泣き声がする。
徐々に徐々に泣き声は大きくなっていき、ハッとすると男は、自分が女の子の肩に食いつき、歯が肉を抉っていることに気がついた。
「あぁ、あぁ…」
教室は授業中だったらしく、クラスは騒然で、クラス担任の先生がすぐに男を取り押さえて生徒たちから引き剥がした。
「あぁ、私はどうしてあの子に…?」
私が肉を取るのはいつも放課後じゃないか…
今は昼前だぞ…あぁなんちゅうミスだ…。
あぁ、失敗だ…。
男は複数の人間に廊下を引きずられながら、歯についた少量の血と肉を舐め、少しだけ微笑んだ。
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