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「英ちゃん、そろそろ寝んさいよ。もう9時すぎとるよ。明日学校じゃろ?」
お母さんが弟の英二に声をかけた。
机に向かい何かを書いていた英二は「うるさい。あっちへ行って」と悪態をつき、お母さんを追い払う。
(ほんま感じ悪……)
英二はいつもこうだ。
集中すると全てを忘れてしまう。
食事を取ることも、お風呂に入ることも、寝ることさえも。生きるという最低限のことすらどうでもいいことのように。
私は舌打ちをした。
(なんかもううざいわ)
年の離れた弟の英二。
まだ小学2年生だ。
分別もクソもない年頃で、ただ小さくて、笑っちゃうほど幼くて生意気。
世の中を知らないから。
と言っても私もまだ高校生だし、世間の荒波など関係のないところ位にいるのは変わらない。
小学生の英二と五十歩百歩っていうところだ。
でも、親の苦労は少しばかりはわかる。
アルバイトを始めて、お金を稼ぐ苦労も知ったし、人に頭を下げなければならない苦しさも怒りも体験した。
わかっているだけに、英二の傍若無人ぶりに姉としては腹が立つのだ。
英二は色んなところでトラブルを起こす。
かっこよくいえばトラブルメーカー。
オブラート外しちゃえば嫌われ者。
小学校に入学してしばらく経った頃、あまりの酷さに家族も学校も疲れ切り医者に助けを求めた。
そこで言われたのが英二は巷を騒がす発達障害児、であるらしい。
知的には問題はないけれど、人の気持ちを察するのが苦手のマイルール全開なタイプなんだそうだ。
(障害はどうしようもないって、わかっちゃいるけどさ。ハードモードだよね。本人もだけど、家族も)
英二の中では彼自身の世界があって、それはその他大勢の人々の世界とは違っている。
人は寛容になれないものだ。
違う文化は歴史で証明されているように激突する。
だから軋轢を起こし、ばちばちやり合うのは当然って言えば当然。
身内である姉である私が橋渡しをすりゃいいんだろうけど。
正直、面倒くさい。
だけどなぁ。
「英二、あんた、明日一時間目は図工なんでしょ? 遅刻するとできなくなっちゃうよ」
図工は英二が一番好きな教科だ。
どれだけ機嫌が悪くても、図工の時間だけは席についていられるってお母さんが言ってたっけ。
英二はスルーする。
私の声は背景の音と同じ。きっと聞こえてないんだろうなぁ。
一応チャレンジした。実績は残したのだ。
もう、いいか。義務は果たした。好きにさせてや……
「姉ちゃん」
不意に英二が振り返った。
「見て」
英二は私の目の前に、国語のプリントを広げた。
書き取り問題の間に、細かく小さな何かがぎっしりと書き込まれている。
私は目を凝らした。
見覚えのある景色。
去年の夏休みに家族で旅行した尾道の風景だ。
坂の上から見たぎっしりと並ぶ民家の屋根の瓦、狭い海峡に行き交う漁船まで寸分違わない。
そこには英二の世界が広がっていた。
ミニチュアの尾道は、忘れ去られた国語の問題の間にひっそりと生まれ、英二によって命を吹き込まれていた。
プリントの中は異世界だった。
英二にはただの絵を英二だけの世界に変えることができるのかもしれない。
私は何の解答も書かれていないプリントを手に取って、しげしげと見つめた。
「すごいね。写真みたいじゃん」
「船がたくさんいて、家もいっぱいあって、面白かった」
「英二、絵描くの好き?」
「うん。俺、絵を描く人になりたい」
「いいね」
才能ってものはこれを言うのかと、つくづく思う。
英二の世界に踏み込むことはできないし、したくないけど、ちょっとだけなら覗いてみたい気もする。
私は弟を心底うざいと思うけど、その才能だけは羨ましい。
彼の小さな世界が周囲と戦いながら大きく広がっていけばいい。
なんて姉ちゃんは思うんだ。
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