【在原業平】

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女が右肩に掛けているトートバッグが目に入る。 週末になると携えている、 着替えや化粧品などが詰まったトートバッグだ。 大抵の場合、俺が持たされることになる。 と言うよりも、俺から持とうかと提案するのだが。 いつものようにバッグを持とうかと声を掛ける。 しかし、女はハッとした表情を浮かべ、 そして、無言でかぶりを振る。 しばし押し問答をするも、 女はトートバッグを俺に預けることを頑なに拒む。 訳が分からない。 まぁ、無理矢理に奪う訳にもいかないので諦める。 トートバッグの中がチラリと見える。 矢鱈と分厚い雑誌が見え隠れしている。 見覚えのある雑誌だ。 実は昨日、俺も同じ雑誌を買っていた。 普段とは異なる女の不自然な態度に合点が行った。 普段とは異なるトートバッグの重さから、この分厚い雑誌を持っていることを気付かれるのが嫌なのだろう。 だから、今日は俺に持たせたくないのか。 そして、先程の不安定な態度にも何となく合点が行った。 彼女なりに気持ちを固めつつあったから、 その反動で不安にもなっていたんだろうな、と。 俺の手を握る女の掌から、 じんわりとした温もりが伝わってくる。 その掌は、やや汗ばんでいる。 ついつい、女の汗ばんだ肢体を、その時の匂いを、 そして、その時の声を思い出してしまった。 俺しか知り得ない女の姿を。 その回想を慌てて打ち消す。 浮つきかけた気持ちを抑え込むかのように、 敢えて重々しいことを考えてみる。 俺は、これからひとつの関係性に拘束されることになるのだろう。 きっと、ずっと。 俺は自由を失い、日々の生活において、 自分の選択肢の幅も失われていくのだろう。 そして、その状態は幸福なのだと自分自身に言い聞かせることも起きるのだろう。 それって、考えようによっては『呪い』とも言えるのではないだろうか。 女の言葉を借りる訳じゃないが、 「春の呪い」って奴か。 いや、『呪い』は人を不幸に誘うものだから、 全く違うか。 でもまぁ、それが『呪い』であっても別に良いか。 それが俺を女の傍に縛り付け続けてくれるのなら。 やや冷たさを孕んだ微風が吹き抜ける。 はらはらと桜の花片が乱れながら舞い散り行く。 調子外れの鶯の鳴き声が長閑やかに響き渡る。
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