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 いや、怪しいとは思っていたのだ。    いつの間にか迷い混んだ見知らぬ道。ここはどこだろう。キョロキョロと辺りを見渡してみるも、何も見えない。何せ、真っ暗なのだ。しかも周囲は鬱蒼とした木々が生い茂っており、月明かりすら届かない有り様だ。更に街灯一つ建っておらず、まさに一寸先は闇、といった状況だった。   「おい、そこのアンタ」    突然、前方から聞こえた声。目を凝らしてみると、道の脇にポツンと人影が佇んでいた。 「……誰ですか?」 「そんなこたぁどうだっていいだろう」  その声は老婆のようにしゃがれていたが、立ち姿はシャンとしており、シルエットだけならかなり若々しい。顔を見たかったのだが、この暗さに加え、頭から黒いマントのようなものを被っていた為に全くと言っていいほど見えなかった。  マントを被った老婆のような女━━通称、マント女はこちらを向いたまま「ウフフ」と気味の悪い笑みを浮かべている。  何がウフフだバーカ。龍一はマント女に侮蔑の目を向けると、そのまま立ち去ろうとした。   「待ちな!」    案の定、とでも言うべきか。マント女は声を張り上げて龍一を呼び止めた。 「……何ですか」 「なぁに、大した用じゃないんだけどね」  あんなに大声で呼び止めといて、大した用じゃないなんてことはないだろう。そうツッコミたくなるのを我慢する。 「ちょっとアンタと取り引きがしたいだけなんだ」  何が取り引きだ。胡散くさっ。  龍一は早足で歩き出した。これ以上マント女と話してると帰るのが遅くなる。龍一は急いでいるのだ。とにかく早くここを抜け出さないと。アイツが待って……。    ━━━━あれ?アイツって、誰だっけ。    一瞬、龍一の脳裏を何かが過った。大事な、大事な何かが。  突然のことに思わず足を止めた龍一に、待っていましたと言わんばかりに女はニイッと笑った。     「残念だねぇ。折角、妹さんを救うチャンスを与えてやろうと思ったのに」      妹、妹。   「━━━━っ!」    そうだ、思い出した。  次々と甦る記憶。龍一はやっと、マント女の言葉の意味を理解した。        浦部桃香は学校一の美少女だ。成績も優秀で、テストの点数は常に学年でトップ。更に、運動神経も抜群だ。所属するテニス部では圧倒的実力により向かうところ敵なし。公式試合も負け知らずで賞状やトロフィーをしょっちゅうゲットしている。  まさに、ミス・パーフェクト。憧れ、恋慕、妬み、恨み。ありとあらゆる感情を向けられる注目の人物。常に人の輪の中にいて、常に誰かの話題の中にいる。さながら芸能人のように輝いていたのだ。    龍一はそんな彼女が大好きだった。    我が誇らしき妹よ!浦部家のアイドルスターよ!ニッポンの宝よ!  歯が浮くような甘い褒め言葉を恥ずかしげもなく並べ立て、周囲にも桃香の自慢話をベラベラベラベラ話しまくり、時には「桃香のセコムに!俺はなる!」などと叫びながら彼女に付きまとった。その度に龍一は桃香に煙たがられ、暴言を浴びせられ、更にはぶん殴られることもあったが、それを咎めたことは一切なかった。それどころかお転婆で反抗期な俺の妹、激カワ!と悶える始末。    何を隠そう、龍一はゴリゴリのシスコンだった。    年は一つしか変わらない。だから桃香が小さい頃は龍一も小さかったのでお兄ちゃんらしいことをしてやった覚えはない。小学生に上がる頃には桃香は既に完璧だったのでいちいち世話をしてやる必要もなかった。高校生になった今となってはもはや同い年に近い。もっと言えば、龍一よりも桃香の方がうんとしっかり者だ。今更兄貴ぶったところで慕われる筈がない。付きまとったりすれば尚更だ。  しかし、それでも龍一は桃香の唯一無二であるつもりだった。成績優秀、容姿端麗、それでいて誰にでも分け隔てなく優しい彼女が兄である龍一の前でだけ見せる強情な態度。それはきっと自分にだからこそ見せられる素の表情なのだと龍一は確信していた。だから、彼女がどれだけ暴言を吐こうと、手や足を出そうと、龍一は喜んで受け入れた。学校で溜まったストレスをぶつけられる唯一の相手。それこそが己なのだと自負していた。    龍一には桃香が可愛くて仕方がなかった。猫みたいだとさえ思っていた。天の邪鬼の癖して甘えん坊な不器用さん。  だから俺がセコムになって、彼女のことを全力で守る。そう決心していた。    あれは、その矢先の出来事だった。         「妹さんの足を治してやるよ」    突然、戻った記憶に放心する龍一に女はニタッと笑みを浮かべた。 「桃香の……足を……?」 「ああ。その為にお前さんは奔走してたんだろう?」  そう。そうだ。何でこんな大事なことを忘れていたんだ。  瞼の裏に鮮明に甦る桃香の涙。龍一は自分の不甲斐なさを思い出し、唇を噛み締めた。      自転車と歩行者の事故だったという。  よくある話だ。クソガキが運転するクソみたいな自転車が、見目麗しく歩道の端を歩いていた桃香に思いっきり激突した。クソガキは倒れた桃香をほっぽり出して逃げて行ったそうな。  桃香の負った怪我は重いものだった。特に足は神経が切れており、もうテニスはおろか、普通に歩くことすら困難だと医者は言っていた。  桃香は深い絶望の底に叩き落とされた。順調に治る怪我と反比例して、身体はどんどん痩せ細った。殆ど食事に手を付けないからだ。本人も食べなきゃならないことは分かっているようだが、どうも食欲が湧かないらしい。  これはいけない。龍一はありとあらゆる言葉で彼女を慰めた。いつものあのうざったい気障な言い回しで、四六時中、延々と。  案の定、桃香は元気にはならなかった。それどころか暴言を吐くでもなく、睨み付けるでもなく、聞いているのか聞いていないのかよく分からない表情で俯くばかりだ。  龍一は悟った。もう、彼女は何も言ってくれないのだと。泣きつくことはおろか、今までのようにストレスの捌け口にすらしてくれない。    桃香は完全に心を閉ざしてしまったのだ。    何を言っても届かない。現実を受け入れようとしない。ならば、彼女を救える方法はたった一つ。    足だ。足をどうにかして元に戻すことだ。      龍一は病室を飛び出した。こんなところにいては駄目だ。初めから治そうとしない医者に頼むことなんて何もない。きっといる筈だ。桃香の足の治し方を知っている名医が。必ずどこかにいる筈だ。  電車に乗り、バスに乗り、病院という病院を片っ端から回った。大きい病院だけでなく、町医者も訪問した。名医はどこにいるか分からないからな。可能性のある場所は全て当たってみないと。  しかし当然、まともに取り合ってくれる医者などどこにもおらず、龍一は路頭に迷うこととなった。    こうして来たこともない道をブラブラ歩いているうちに、この不思議な空間へ迷い込んだという訳だ。        女の顔は未だよく見えない。しかし、マントの下から僅かに覗かせた口元には笑みが浮かんでいる。自信の現れのようだ。  ━━━━あぁ、神だ。  龍一はペタンとその場に崩れ落ち、地面に膝をついた。   「お願いします!妹を助けて下さい!」  そして、勢いよく地面に頭を擦りつけた。   「……分かってると思うけど、タダではやらないよ」 「はい!ですが、今、手持ちのお金があんまり無くて」 「金なんていらないよ。私が欲しいのは」 「明日!明日また持って来るんでご勘弁を」 「いや、だからお金は」 「必ず!必ずや用意を……」 「もう!一旦お黙り!」    突然の大声に龍一は漸く口を閉じた。何かまずいことでも言ったかしら。原因は話を聞いていなかった龍一にあるのだが、喋るのに夢中で周りの音が耳に入っていなかったのだから仕方がない。土下座していたから女の口元も見えなかったし。寧ろ地面しか見えなかったし。 「あのねぇアンタ……話は落ち着いて最後まで聞くんだよ」 「はい!すみません!」  返事の良さだけは一丁前だ。人ってものは勢いよく謝られるとつい許してしまうものなのだ。まぁ、それも初犯までの話だが。    女は深く溜め息をついた。呆れてしまったのだろうか。不安になりマントの下の表情を覗こうとするも、やはり影になって見えない。 「……あのねぇ、私がいつ金が欲しいなんて言ったんだい?」 「い、いえ、一言も」 「そうだろう。いいかい?ちゃんと説明してやるから、今度こそ聞くんだよ?」 「はい!」  良かった。そんなに怒ってはいないようだ。ホッと安堵の息をつく龍一を他所に、女は「では改めて」とでも言わんばかりにコホンと軽く咳払いした。   「私が欲しいのは、アンタの寿命さ」    女はゆっくりと龍一の胸の辺りを指差した。ちょうど心臓の辺りだ。龍一はその指先を不思議そうに眺めると、眉をしかめた。 「寿命……ですか?」 「そうさ」 「それはその、どのくらいを?」 「そうだねぇ。半分くらいは貰おうかねぇ」  はんぶん。龍一はそう繰り返した。その表情は真剣そのもので、彼は唇に手を当てると暫く黙り込んでしまった。  大事な妹とはいえど、己の命を賭けろと言われれば誰だって少しは悩む。そんなことは既に想定済みだったのだろう。女は難しい表情の龍一に笑顔で切り出した。 「半分は、ちと多いかい?なら……」 「いや」  しかし、そんな彼から返ってきたのは予想だにしない言葉だった。   「俺の寿命で良いならいくらでも払います!!」    キラキラと輝く瞳。そこには躊躇いなど微塵も感じられなかった。 「え?」 「いやぁ、金がなくて困ってたんですよ!寿命なら誰にでもあるし」 「それはまぁ……そうだけど」 「貴方、結構優しいんですね!」 「そ、そう?」  やったあ。これで桃香を助けられる。胸がドキドキと高鳴り、気分は風船のように軽い。喜ぶ彼女の顔を思い浮かべると尚更だ。 「さ、先生。早くやっちゃって下さい」 「せ、先生……?」  言い出しっぺのマント女は、龍一のテンションに着いていけないらしい。さっきまであんなに偉そうだった癖に。ざまぁないな。龍一はフンと鼻を鳴らすと、いつでもどうぞ!と言わんばかりに両手を広げて仁王立ちした。 「さぁ!早く!」  笑顔で急かす龍一に、マント女は少しばかりたじろいでいるようだ。何をそんなにビビっているのだろうか。  不思議に思って首を傾げたその時、女は突然動いた。   「なら遠慮なく頂くよ!」    ツカツカと真っ直ぐにこちらへ歩いて来たかと思いきや、女はその細っこい腕を龍一の胸へ勢いよく突き刺した。   「うわっ!」 「なぁに、一瞬で終わることさ。黙ってじっとしてな」    幸い、痛みは感じなかった。が、グチュグチュと掻き回す音がグロテスクで気持ち悪い。龍一は胸元から視線を逸らし、耳を塞いで言われるがまま、じっと耐えた。   「じゃ、頂くよ!」    ズポ、という音と共に引き抜かれた女の腕。その手には、真っ赤に発光するテニスボールサイズの玉が握られていた。      ━━━━あぁ、それが俺の命か。    そう思うと同時に、龍一の意識は急に途切れた。    倒れる直前、少しだけ女と目が合った気がした。
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