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――また、ダメだった。
穏やかな夕日が差す教場で、恵音は淡い落胆のため息を落とした。
格子窓の向こうで、終業を告げる大聖堂の鐘の音が鳴り響く。
ひな壇状に長机が並ぶ大講堂には、帰り支度をする生徒たちがまばらに残っている。聞こえてくる笑い声や足音は軽やかだ。週末だからだろう。
『シンクロ率:平均 11.5%
適合者 なし』
窓際の席に磔にされたように動けないまま、学院章入りの書簡を恵音は手の中でくしゃりと握りしめた。
華奢な両肩を落とし、目元を覆う長い前髪の下で瞳を伏せる。
今回が、たぶん最後のチャンスだった。
毎回通知書は同じ言葉を飽きずに告げてくる。だが今日は特に無情で冷酷な宣告に思えた。
「ねえ、聞いた? 新しい洗礼者が見つかったって」
激情をねじ伏せ、くしゃくしゃになった通知を折りたたむ。
「ああ、聖別科の1年に編入してきたって子だろ。14歳だっけ。神の『啓示』ってホントに突然降りるんだな」
書簡と同じ七芒星の封蝋が押された封筒に戻し、学院支給の通学バッグに押し込んだ。
「そうそう。しかも2年の祓魔騎士候補生の誓約相手だって。シンクロ率90%以上で間違いないらしいよ」
後方の席での男女のお喋りが耳に滑り込んでくる。
“イヴ”という言葉に思わず恵音は手を止めた。
「へえ、それってすげーレアなんだろ。年々洗礼者の覚醒も減ってるし、シンクロ率も低下してるから、相性5,60%程度の暫定パートナーと組むのが普通だって」
「滅多にないみたいね。そういうペアは『運命の番』なんて呼ばれてるんだって。なんかちょっとロマンチックじゃない?」
「命を賭ける宿命じゃなければな。祓魔騎士も、洗礼者も、13月の魔者と戦うための生贄だ」
13月――それは、すべてが暗黒に包まれる魔の刻。
この聖シダス騎士学院に入学する者が一番初めに手に取る教書――その表紙を開くと現れる一枚の絵を恵音は思い出す。
深淵と呼ばれる異世界の扉から、人でも動物でもない“魔者”と呼ばれる異形の侵略者の大群が襲来した世界を描いたものだ。
空は重油のような黒雲に塞がれ、昼も夜もない。
暗黒と恐怖に蝕まれる、”死”が支配する無のひと月――それが13月。
「この世で唯一魔を滅せる騎士と、その武器になる神の秘力を授かった人間――か。天命を果たすまで戦い続けるとか、そんな運命確かに背負いたくないけど。でもさ、洗礼者と 祓魔騎士って必ず男女一組で、恋人同士になる場合もあるって――。ああ、あたしも、洗礼者だったらよかったのになぁ。騎士様と恋したーい」
「無理だろー。洗礼者の啓示が降りるのって、17歳までだっていうじゃん。お前もうすぐ誕生日だろ。それになれたとしても――ほら……そこの『デキソコナイの子羊ちゃん』みたいにはなりたくないだろ」
ガタン。
華奢な肩にバッグを斜め掛けにし、恵音は長机から立ち上がった。
蝶が飛び立つように静かにとはいかず、思いがけず音が響いた。
「ちょっと……聞こえたんじゃない。笑っちゃ悪いよ」
「いいんだよ。本当のことなんだから」
――テキゴウケンサ、マタダメダッタラシイヨ。
講堂のモザイク模様の寄木の天井や床は芸術的な美しさだ。
とりわけ朝日や夕日が差しこむ時間は、祈り場のような神秘的な表情を見せる。
階段の途中で足を止め、恵音は濡れたように艶めく漆黒の髪を翻した。
斜陽が映し出す、少女にも少年にも見える人形のような小さな貌。
青藍色のブレザーと黒色のズボンは、学院の男子用の制服だ。だが華奢で小柄な肢体が纏うにはやや大きく、心許ない印象を与える。
「な、なん……だよ」
長い前髪のすき間から見上げると、二段上の長机にいた男子生徒が嘲笑をおさめ、ひるんだ。隣の女生徒もビクリと身を竦める。
「やめろよ……き、気持ち悪いから見んなよ」
講堂の時が止まる。
室内の誰もがみな、息を呑んで、同じ表情の仮面をつけて、こちらを見ていた。
怯え、嫌悪。怖いのだ――この瞳が。
このよくわからない存在が。
吐き気がするほど、嫌で、嫌でしょうがないのだ――。
「……だったら、排除してみる?」
いっそズタズタに切り裂いて欲しい。
バッグのストラップを握りしめたまま、恵音は熟れた果実のような紅い唇から、感情のない声を吐き出した。
大きなアメジスト色の瞳が、夕陽を弾いて万華鏡のように揺らめく。
『呪われた子』、と誰かが呟いた。
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