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奥平は続けた。
「山には猿もいるし猪だっているぞ。それと君の好きな熊もいる」
「熊も!?」
「君のご執心のヒグマではないけどな。ツキノワグマだ」
「ツキノワグマがいるのか。それは凄いな」
市川はヒグマの獣害事件を題材にした小説を読んで、獰猛なヒグマににわかに興味を持ち始め国内外のネット動画を見漁っているのだ。
ひとたび獲物を前にすればヒグマには及ばないにしても、ツキノワグマも十分獰猛であることを奥平は知っている。
「どうだ山に登ってみるかい。冬眠明けの熊に出会えるかもしれないぜ」
「そりゃ良いな。いやいやヤバいだろ。熊なんて動画で見るだけで十分だ」
市川はふざけて言った。
「ハハそうだな。なんてったって冬眠明けの熊は危険だ。ま、君はとりあえずゆっくりすることだ。それにしても君、例の女性にアメリカに留学するなんて出鱈目言ったらしいじゃないか」
「え……」
「全く嘘はいけないな」
奥平は真顔で言った。
「奥平君、それを言うなって。せっかくこんな長閑なところに連れて来てくれたのに思い出させるなよ」
市川が軽い調子で抗議する。
「悪い悪い。分かった。まあしばらく東京を忘れてゆっくりしろ。おう、ビールでも飲もうや。もうすぐ畑からおふくろも帰ってくるだろうし、きっと自慢の山菜の天ぷらをいやと言うほど食わされるぞ」
奥平は話を変えるように市川の肩をポンと叩くと、ビールを取りに窓から離れた。
市川は気のせいか地元に帰って急に 逞しくなったよう見える奥平の背中をながめて、また山の緑に顔を向けた。そして、
「まあ菜々子のことは忘れて、せいぜい楽しませてもらうとするか」
と、手首を切って自殺未遂をした面倒くさい元恋人の顔を、市川は苦く思い出して独りごちた。
ワンワンッ
コッコッコッ
ピィーピィー
キィーキィー
山間の人口百人にも満たない小さな村は、市川が想像したよりも随分と賑やかだった。
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