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二の宝〜地の巻
ひと気の無い道場はいつも物静かだが、今の張り詰めた静寂は耐えがたいものがあった。
竹刀を片付ける三人の沈黙が、重たい空気を生んでいるからだ。
時空は尊と二人でやると言ったが、長須根伊織も手伝うと言って残った。
何らかの責任を感じているのかもしれない。
時空は、好きなようにさせる事にした。
結局、仄の口から真相は聞けなかった。
仮に彼女が犯人だとしても、あれだけ周到にアリバイを用意されては手も足も出ない。
それに問題は、何故こんな事をしたかだ。
「警告かもね」
伊織に聞こえぬよう、尊が小声で呟く。
時空も小さく頷いた。
自分が隠し事をしている事は、気付かれているはずだ。
ならばこれは、白状しろという脅迫ともとれる。
逆らえば、今度は竹刀だけでは済まないぞという脅しだ。
もしそうなら、とても高校生とは思えない所業である。
まるで犯罪者だ……
仄に対する懐疑の念は増すばかりだった。
「きゃあぁっ!」
突如、伊織のけたたましい悲鳴が響き渡る。
反射的に振り向いた時空の目に、信じられない光景が映った。
いつの前にか、入口に一人の人物が立っている。
驚いたのは、その異様な様相だった。
漆黒の着衣に黒頭巾──
まるで、忍者が纏う黒装束そっくりである。
軽く二メートルを越す巨軀には、盛り上がった筋肉の隆起が見てとれる。
だがそれ以上に、身を竦ませるものがあった。
黒頭巾から垣間見える両眼である。
瞳孔の無いその目は、不気味な深紅色の光を宿していた。
明らかに人間のものでは無い……
手には、巨大な鎌のようなものが握られている。
そこから漂い出る血生臭い臭気が、時空の鼻腔を刺激した。
こいつは……やばい!
時空の武道家としての直感が、そう告げていた。
「何だっ、あんたは!」
時空が吠える。
咄嗟に身構え、自然と戦闘スタイルに切り替わる。
一瞬顔色を失った尊も、すぐに気を取り直し伊織を手で庇った。
その二人の前に立ち、盾となる時空。
「一体、何の用だっ!」
更に時空が問い詰める。
だが黒装束は、終始無言で何の反応も見せなかった。
時空は隙をみて逃げるよう、尊に目配せした。
自分が囮になるつもりだった。
手元に武器は無いが、素手での格闘術も心得ている。
時間稼ぎなら出来るだろう。
「ひゃひっ!」
その不審な挙動に気付いたか、突然奇声を発する黒装束。
手に持つ鎌を振り上げると、そのまま襲い掛かってきた。
「逃げろっ!」
一歩前に出て叫ぶ時空。
同時に、振り下ろされた鎌の一撃を両手で受け止めた。
ガシッ!!
骨の軋む音がした。
なんて馬鹿力だ……!?
たちまち体勢が崩れ、片膝をつく。
その隙をついて、尊と伊織が戸口に走る。
だが如何せん、相手のスピードの方が勝っていた。
黒装束は尊たちに気付くと、戸口まで跳躍した。
尊と伊織の頭上を、一気に飛び越える。
数メートルを助走無しで跳ぶとは……
とても人間業とは思えなかった。
出口を塞がれ、二人は逃げ場を失った。
顔面蒼白の伊織に、尊が覆い被さる。
「たけるっ!」
駆け付けた時空の正拳突きが、黒装束の脇腹にめり込む。
だが、相手が怯む様子は全く無かった。
黒装束は平然と時空を見降ろし、腹に刺さった拳を掴んだ。
そのまま片手で、後方へ払い飛ばす。
宙を飛んだ時空の体は道場の壁に激突し、床に転がり落ちた。
「ぐふっ!」
苦痛の声が漏れ出る。
壁面の破損状況から見て、肋骨が損傷したのは間違いない。
黒装束が、再び尊と伊織の方に向き直った。
赤い目を輝かせながら、ゆっくり鎌を振り上げる。
苦痛で霞む時空の視界に、恐怖に歪んだ二人の顔が映った。
まずい!
このままでは……二人が危ない!
無意識に、時空の手がポケットの中を探る。
何かを思いついた訳ではない。
体が勝手に反応していた。
取り出された手には、白い御守袋が握られている。
時空は震える指で、それを握り締めた。
我は彼を待ち、彼は我を待つ──
今再び一つにならん──
凄まじい閃光が、御守袋から飛散した。
うねる力の奔流が、時空の周りで渦巻く。
それは紛れもなく、八刀神神社の時と同じ現象だった。
光は、幾度も時空の体を突き抜けた。
その都度、全身の痛みが薄れていくのが分かった。
やがて動きを止めた奔流は、吸い込まれるように御守袋に消えていった。
道場内が元の光景に戻る……
時空は、すでに立ち上がっていた。
その手には、青く輝く物体があった。
八握剣が、その姿を現したのだった。
「シャァァァァァっ!」
時空の異変に驚いたのか、黒装束が威嚇するように叫んだ。
鎌を振り上げ、幾度も体を揺する。
時空は、冷ややかな眼差しでそれを眺めた。
「キィィィーっ!!」
動じない様子に腹を立てたのか、黒装束が鎌を振り上げ突進してきた。
全身から殺気が放出している。
時空は剣を左腰に納めると、静かに身を沈めた。
攻撃をかわすでもなく、じっと構える。
黒装束の鎌が、頭上で弧を描いた。
と……
一瞬の閃光と共に、黒装束の体が静止した。
時空の毛髪に、刃が触れるほどの距離で鎌が止まる。
「神武至天流居合術……八咫烏」
時空が囁く。
それは、己が日々修練を積んでいる流派の名だった。
ほどなく、黒装束の体に異変が起こった。
仁王立ちの下半身を残したまま、上半身が床に滑り落ちる。
胴体が、真っ二つに分断されたのだ。
信じられない光景だった。
「グっ……ギャァァァっ!」
黒装束の口から、断末魔の叫びが放たれる。
と同時に、その体から黒い靄のようなものが漂い出てきた。
靄は、瞬く間に黒装束の体を包み込む。
すると次の瞬間には、異形諸共その場から消失してしまった。
まるで、何かのマジックを見ているようだった。
道場に元の静寂が訪れる──
「時空!」
駆け寄る尊の声で、我に返る時空。
八握剣は手の中で、すでに神鏡に戻っていた。
体の痛みも、嘘のように消えている。
「すごい……今のあなたがやったの?」
興奮気味の口調で問いかける尊。
信じられないといった顔だ。
「……ああ、そのようだな。八咫烏は、うちの流派の居合術の一つなんだが……」
夢から覚めたように、頭を振る時空。
「だが、あれ程の威力は無いはずだ。そもそも……今のは人間業じゃ無い……」
そう言って、少女は唇を噛み締めた。
八咫烏は高速の抜刀を基本とし、相手の攻撃に準じて倒す技だ。
だがその威力となると、せいぜい巻藁を一刀両断出来る程度だ。
弾力に富む筋肉や硬い骨を、一振りで断ち切るなど不可能である。
それをこの剣は、あっさりやってのけた。
まるで薄布を切るような軽さで、分断してしまったのだ。
驚くべき破砕力としか言いようがない。
それに、実際に人を切ったのは初めてだった。
仮に今のが人間では無かったにしても、何らかの生き物であるのは間違いない。
声も発するし、感情表現も見せていたからだ。
その相手に、自分は太刀を浴びせてしまった。
真っ二つに切り裂いてしまったのだ。
なのに……
なのに、なぜだ?
なんで何の感情も抱かなかったのだ!?
一瞬の躊躇いも、一抹の後悔も感じなかった。
おかしい……
こんな事は初めてだ。
一体自分は、どうなってしまったのか……
もしかしたら、これも……
この剣のせいなのだろうか?
八握剣に対する強い猜疑心が、時空の胸中に渦巻く。
「とにかく助かったわ。ありがとう」
尊の言葉が、時空を現実へと引き戻した。
いずれにせよ、あのままでは尊も伊織も確実に殺されていた。
二人を救うには、ああするしか無かったのだ。
時空は己に言い聞かすように、大きく頷いた。
「い、今のは……な、何だったんですか!?」
尊の背後で、伊織の震えた声が響く。
涙でくしゃくしゃになった顔が、動揺の激しさを物語っている。
突然、得体の知れぬ異形に襲われ、撃退したかと思えば霧のように消えてしまう……
そんな非現実的な出来事を、受け入れろと言う方が無理な話だった。
「分からん……だが、もう大丈夫だ」
そう言って、時空は伊織の肩に手を置いた。
今は落ち着かせる事が先決だ。
「とりあえず此処を出ましょう。伊織も怯えてるし……学校にも、報告しておいた方がいいわね」
冷静さの戻った尊の進言に、時空も同意の表情を浮かべた。
慎重に外を確認し、一行はそのまま職員室に向かった。
それにしても、アイツは何だったんだろう……
時空の脳裏に、深紅色の眼光が蘇る。
容姿や動きからも、普通の人間で無い事は確かだ。
言葉も話さず、出すのは動物じみた奇声のみ。
あんなものが、この世に存在している事自体信じられなかった。
そしてそれ以上に気になるのが、襲われた理由だ。
あのタイミングで現れたという事は、狙いはあの場にいた三人だ。
伊織では無い。
俺か、尊……いや一番可能性があるのは、やはり俺か。
これも、仄の差しがねなのだろうか。
竹刀による脅しだけでなく、強硬手段にまで及んだという事なのか。
だとすれば……
アイツの力は、度を越している。
あまりに、俺たちの想像を超え過ぎている。
一体どこから呼んだのか知らないが、あんな異形を操れるのだ。
もしあれが、大挙して襲ってきたら……
八握剣をもってしても、太刀打ち出来るかどうか……
自分だけならまだしも、尊や周囲の者にまで危害が及ぶとなれば、事は深刻だ。
これから先、自分はどうすればいいんだろう……
時空は嗚咽する伊織と、それを支える尊の姿を、苦悶の表情で見つめた。
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