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「じゃあ、あとでオレの部屋に来てください」
「分かった」
寮につくと、2人は一旦それぞれの部屋に戻った。仕事柄汗や泥などで汚れやすいため、一度風呂に入ってからではないと、なんとなく落ち着かない。
空護は手早く自室のシャワーを浴びると、新しいローブを羽織り勇也の部屋に向かう。といっても勇也の部屋は隣なので数十秒で着いた。
勇也の部屋のインターホンを鳴らすと、モニターから勇也の声が聞こえた。
『鍵空いてるんで入ってください』
勇也の指示に従い、ドアノブに手をかけ扉を開ける。勇也の言ったとおり鍵のかかっていない扉は、すんなりと開いた。寮の部屋は入ってすぐに廊下があり、その廊下沿いにキッチンが備えられている。
「さっきぶりですが、いらっしゃいませ。もう少しかかるので部屋で待っててください」
勇也は無地のエプロンをつけ、慣れた手つきで食材を刻んでいる。近年は家庭用の調理機械もあるが、勇也は自分で作るようだ。
「おう」
空護がそのまま廊下を突っ切ると8畳ほどの部屋がある。
シングルサイズのベッドに、ローテーブル、小さめのモニター、その他色々。シンプルにまとめられた至って普通の部屋だった。
ローテーブルのそばには、薄黄色の座椅子と赤色のクッションが置かれており、部屋に色を足している。空護は奥の方にある赤いクッションに腰を掛けた。顔を上げれば料理をしている勇也が目に入る。しかし、料理などしたことのない空護には、勇也が何をしているのか、あとどれだけかかるのかも分からない。
すんっと鼻をならせば、お腹のすく様な匂いがするが、料理を知らない空護にはこれが何の匂いなのか分からない。
じゅうじゅうと何かが焼ける音と、沸々を水がわく音がする。
手が空いたのか、勇也がちらりと空護をみた。
「先輩、誰に見られるわけじゃないんですから、ローブとったらどうですか?どうせ、食べるとき邪魔でしょうし」
ローブは、空護が獣人であることを隠すためのものだ。そのため、勇也と自分しかいない部屋では必要がない。空護は羽織っていたローブを脱ぎ、自分の近くにたたんで置いておいた。
ローブを脱いだ空護を見て、勇也は顔をほころばせる。
「もうすぐできますから、待っててくださいね」
やけに機嫌がよくなった勇也に、空護は首をかしげるが特に深くは尋ねなかった。
慣れない他人の部屋で、空護が借りてきた猫のようにじっとしてから、10分もたたないくらいだろうか。
「お待ちどうさまです」
勇也が持ってきたのは、片手よりも大きい丼に盛られたアツアツの親子丼だった。
「…」
空護は口を閉ざしたままだった。下手に口を開けば、墓穴を掘る可能性がある。無知を知られることは空護のプライドが許さなかった。
「お味噌汁もありますよ」
そういって勇也は、並々と継がれた味噌汁も持ってきた。角切りにされた豆腐がちょこちょこと顔を見せている。
「それと箸です」
勇也が黒い二本の細い棒を差し出した。
「おう」
空護は当然のように受け取ったが、内心は焦っている。
「じゃ、食べましょうか。いただきます!」
そういうと勇也は、目の前の丼に手を伸ばした。
「いただきます」
空護も勇也のあとに続く。箸を持っている勇也の手をじいっと見つめ、真似るように箸を持った。
「あれ、先輩左利きでしたっけ」
びくりと空護は肩を震わせる。勇也の真似に集中したせいか、うっかり鏡のようになってしまった。
「えっと…」
いつものふてぶてしい態度はなく、空護は困ったように視線を泳がせている。耳までぺしゃりと倒しており、途方に暮れているのが勇也にも分かった。
一方空護は、上手い嘘が思いつかず、正直に話すことに決めた。
「使い方が、分からねえ」
「え?」
心から言いたくないというように、空護は口を尖らせ眉をゆがめている。
「今まで、使ったことがねえんだよ。悪かったな」
空護は拗ねたように目をそらし、まるで子供のようなしぐさだった。
「いつもは何を使ってるんですか?」
フォークやスプーンが普及してきた現代でも、箸はまだまだ現役である。それにも関わらず、いままで使ったことがないというのは、おかしな話である。
勇也の問に、空護は眉をひそめた。どう説明するか逡巡した後、懐からシンプルなパッケージの袋を取り出した。
「これは?」
「…オレが普段食べてるもん。特注品のカロリーバーだよ」
「特注品のカロリーバーですか?」
聞き慣れない言葉というか、聞かない言葉の組み合わせに勇也は思わず問い返した。
カロリーバーくらいは知っているし、食べたこともある。最近のカロリーバーは、ビタミンなども豊富で、フレーバーどころか栄養素でも種類が豊富だ。しかし、あくまで補助食品であり、毎日食べるものではない。
「…オレの肉体データをもとに、必要な栄養素を計算して作られた、カロリーバーだ。基本的にこれ以外食べることを許されていないし、これくらいしか食べたことがねえ」
空護は何一つ嘘をついていない。カロリーバーなのは飯田龍介の好物だからだ。なんでも、手軽に食べられるのがいいらしい。栄養素を調整するのが楽だからなのもある。
一方勇也は空護の言葉を聞いたあと、うつむき体を震わせた。うーうーとうなっていたが、言いたいことがまとまったのか、がばりと顔を上げた。
「もったいない!もったいないっすよ、先輩!この世界にはうまいもんがたくさんあるのに!とにかく、その親子丼食べてください!今まで自分がどれだけもったいなかった分かると思うので。あ、オレスプーン持ってきますね」
勇也は急に熱弁したあと、立ち上がってスプーンを取りに行こうとした。空護は一瞬勇也に気圧されてしまったが、すぐに我に返り勇也を止める。
「いらねえ!…箸使うから」
箸を取りに行こうと空護に背を向けていた勇也は、首を使ってくるりと振り返った。
「スプーンの方楽ですよ」
「…箸つかえねえのは、かっこつかねえだろ」
空護は、箸という存在を知らないわけではなかった。むしろ、成人なら誰でも箸を使えることくらいは知っている。それなのに、自分は使えないことを空護は恥じており、声が尻すぼみしている。
「分かりました。じゃ、オレが教えますよ」
勇也はすっと空護の後ろに回る。距離が近いのと空護の鼻がいいせいとで、シャンプーの匂いに混じって勇也の匂いがふわりとして、空護は思わずどきりとした。
「まず、右手でペンの時と同じように一本持ってください」
そんな空護に気付かず、勇也は説明を始めた。空護は右手で箸を一本持つ。すると、勇也がその右手を取った。勇也の手の熱さが、空護の手に直接伝わる。突然手を握られて、空護はぴくりと小さく驚き、恨めし気に勇也を見た。
「じゃ、もう一本の箸入れるんで動かないでくださいね」
しかし、勇也は空護の右手しかみていないようで、目は真剣である。そしてもう一本の箸を、親指と人差し指の間から、中指と薬指に挟まるように入れた。そのとき勇也の右手は、箸を刺しやすいように空護の右手を動かしている。その間ずっと、空護の心臓はバクバクと大きな音を立てていた。
「はい、これが箸の正しい持ち方です。ちょっと待っててくださいね」
勇也はすっと空護から離れた。空護は緊張のせいか息を止めていたようで、大きく息を吐いた。距離が近いんだよ馬鹿野郎、と心の中で勇也を詰る。
「箸はこうやって動かしてくださいね」
勇也はそういうと、親指と人差し指を使って上の箸を動かした。空護も見様見真似で動かしてみるが、どこかぎこちない。
「ま、あとは慣れですよ。ほら、食べてみてください」
勇也に促され、空護は箸を丼に差し込むが、ここからどうすればいいのか分からない。
「そのまま持ち上げて」
言われた通りに箸を持ち上げると、箸につやつやとした米とふわふわの卵が乗っていた。空護はそれをそのまま口に入れる。口に入れると食べやすい程度に温かく、空護は心が暖かくなった。
いつも食べているカロリーバーとは全然違う。まずは匂いが違う。食べ物に疎い空護には何の匂いか分からないが、ふんわりと食欲をそそる匂いがする。そして味。しょっぱいと言う表現が近いのだろうが、それだけではない。しょっぱいの中に甘さがあって、しょっぱいをしっかり立たせている。また、匂いと似た味がして更に味を複雑にしているが、そのほうがただのしょっぱい味より優しい感じがする。そして、食感。カロリーバーの単調な食感と違い、弾むような弾力の米とふわふわとした卵が入り混じっている。
空護は自分では気が付いていなかったが、口元が緩んでいた。そして勇也は、それを目ざとく見つける。
「美味しいですか?」
親子丼を味わっていた空護は、一瞬考え込んだ。空護は美味しいという感覚はよくわからない。それに今までカロリーバーは栄養補給と思っていたため、今日のような感動はない。
「おいしい、と思う」
空護には「美味しい」という感覚は分からない。だから、この胸の温かさを、この心のはずみを、自分にとっての「美味しい」に定義することにした。
「お口に合ってよかったです。お替りもありますから、いっぱい食べてくださいね」
そういうと勇也は自分の丼に箸をつけた。それを見て空護もぎこちないながらも、丼を食べ進めた。
生まれて初めて食べた、この温かな食事を、自分は絶対に忘れないだろうと、空護は思った。
「ごちそうさまでした」
「ごちそうさまでした」
勇也が両手を合わせたあとで、空護も真似て手を合わせる。
2人とも、話したいことがあったはずなのに、終始無言のまま食事を終えた。空護は、慣れない食事に集中していたし、勇也も空護の一生懸命な顔を見て、後でいいかと先送りにしてしまった。空護の真剣な顔から眼を離せなかったというのもあるが。
形だけの食後の一服。先に沈黙を破ったのは、勇也の方だった。
「先輩、お願いがあるんですけど」
「なんだよ」
勇也が、空護の目をじっと見つめる。口は一文字に引き締められ、真剣さが伺える。
「オレへの、金銭的援助を止めて欲しいんです。まだ、続いてますよね」
「断る。それは実質慰謝料だから」
勇也の懇願を、空護はにべもなく断った。
「でも、オレの両親を殺したのは、先輩じゃないんでしょう?」
しかし勇也は納得がいかず、空護に食い下がる。
「それでも、オレはあの人の弟だ。だから、慰謝料の肩代わりをするのは当然だろ」
「じゃあ、示談にしましょう。金額は今までもらった分で十分です」
「無理だ。いつまで支払うかは、研究所との契約で決まっている。つか、お前は何が気に喰わねえんだよ」
空護の問いに、勇也は頬を膨らませた。
「そりゃ、好きな人に金貢がせてるって、嫌ですもん」
勇也の言葉を聞いたとたん、空護が琥珀色の瞳で勇也をにらみつけた。
「ずっと思ってたんだが、お前はバカか。お前はオレが、獣人であることも、オレの兄貴がお前のこと殺したことも、分かってんだろ。なのに、オレのこと、す、すきって、ありえねえだろ」
空護はずっと勇也のことが理解できなかった。嫌われるような要素なら、いくつも並べられる。勇也の家族を殺した仇の家族、獣人であること、無愛想な態度。でも、好かれる理由なんて、ちっとも思いつかなかった。
「先輩は、綺麗ですから」
そんな空護の考えを打ち消すように、勇也は簡単に答えた。空は青い、なんて当たり前のことをいうような、そんな雰囲気だった。
「先輩の笑った顔ほど、世界で綺麗なものはないと思ってます。特に、その目が好きです」
勇也はテーブルに身を乗り出すと、右手を空護の頬に添えた。
切れ長で涼やかな目元、すっとすじの通った鼻、余計な肉のない頬、全体的に鋭利さを感じるかんばせに、一際目をひくアンバー色の瞳。
まるで日本刀を思わせるような美しさだった。
しかし、頭の上にちょこんと乗った犬のような耳は、空護に可愛らしさというアクセントを与えている。
「こういう色の宝石ありましたよね。何だっけ…。ああ、そうだ、琥珀だ。…うん、やっぱり綺麗です、先輩」
大切なものを見つめるみたいに、勇也は柔らかく微笑んだ。きれいだなあ、と勇也は何回も呟く。勇也は飽きることなく、空護の顔をじっと見つめている。
一方空護は、自分を見つめる勇也の瞳から目をそらした。こんな甘ったるい言葉なんて言われたことなどなく、どう受け止めていいのか分からない。ただ、勇也の明るい瞳が、揺らぎなく自分を見つめるから、勇也の言葉に嘘はないのだと分かっていた。
「それに、あなたの分かりにくく優しいところも好きです」
気付いてないでしょう、そう言わんばかりに勇也は微笑んだ。その表情に空護は舌打ちをする。
「優しくなんかねえよ」
今オレがここにいることでさえ、どれだけの命を犠牲にしたと思っている。そう言いたいのを、空護はぐっと飲み込んだ。この話はまだ、勇也に話す勇気がなかった。
兄を兄と呼びたくて、自分の感謝を押し付けたくて、誰かを踏みにじっている、空護は自分をそういう風に思っている。また、そういう風にしか生きられないと分かっている。
「…だから、オレのこと好きだなんていうな」
オレはお前に好かれるような存在じゃない、空護は言外にそう告げたつもりだった。
でも勇也の目から伝わる熱は、変わらないままだった。
「嫌です。先輩への気持ちは、確かにここにあるので」
勇也は空護の顔から自分の手を離し、トンっと軽く自分の胸を叩く。その顔は自信に満ち溢れていた。
「先輩がなんて言おうとも、オレはあなたが好きです」
空護は目がチカチカとした気がした。自分への恋慕を堂々と言い切った勇也は、ひどくまぶしい。
ふと空護の頭に「自分が普通だったら」という考えがよぎった。何のしがらみもない、普通の人間だったら、そこまで考えて、空護は考えるのを止めた。そんなこと考えたって、何一つ解決しやしない、意味のない思考だ。
自分が「大神空護」である限り、選択の余地などなかった。
「オレにその気はねえ。そんな不毛なもん、捨てちまえ」
勇也の感情はいらないものだと、空護は心のそこから強く思う。勇也は、自分なんぞにうつつを抜かしているべきではない。もっと他に選ぶべき人間がいるはずなのだ。そうであるはずなのに、空護の心はチクリと痛んだ。
「先輩、自分がどんな顔をしているか分かってます?」
「あ?」
勇也の言葉に、空護は眉を吊り上げた。まるで幼子を見ているような勇也の眼差しに、空護は腹を立てた。
「…これは、分かってないですね。まあいいです、目的は達成したんで」
意味の分かっていない空護を置いてきぼりにして、勇也は1人納得していた。
「何だよ、目的って」
「親子丼、美味しかったでしょ?」
勇也はしたり顔で笑った。空護は更に疑問が深まるばかりである。
「…美味しかった、けど!それがなんだっつうんだよ」
「昔ながらの、胃袋を掴む、というやつですよ。また、食べたかったら言ってくださいね」
勇也はきれいな作り笑いで、さわやかに言ってのけた。空護は、勇也の言葉をゆっくりと噛みしめたあと、ぼっと顔を赤くした。
「だ、誰が飯につられるか。これが最後って言ったろ」
「オレとしては撤回していただいけるとありがたいのですが」
勇也はそういながらも表情は変わらない。
ちっと、勇也に聞こえるように空護は舌打ちした。今の勇也に何を言ったって、暖簾に腕押しだろう。
「…帰る。借りは返す」
空護はローブを手にとり、ばさりと羽織った。いつもならうっとおしく感じるローブも、今だけは空護を安心させた。空護はいつも通りフードで頭を隠すと、速足で玄関に向かう。
空護は不自然に会話を切ったが、勇也は特に責めることなく見送りの準備をした。
空護ががちゃりとドアノブに手をかけ、慣れた手つきでドアを開けた。
「大神先輩、また明日会いましょうね」
ドアを開けたまま空護が振り返ると、勇也は小さく手を振っていた。まるで幼子のような可愛らしいしぐさに、空護は無視しづらくなった。
「…またな」
空護は端的に言葉を返すと、荒々しく扉を閉める。
今日一日勇也にひどく心をかき乱された気がする。明日あいたくねえな、と空護は疲れた心で思った。
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