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私は無色透明で生きると誓った。
歩く道には足跡をつけず、机に座れば日常風景に溶け込み、その辺りに浮遊する空気のように生きる。それが高校一年間を過ごしてみて出した、私なりの答えだった。
「おはよう」
私は少しだけ頭を下げた。
こうやって時々、私の透過を見破って挨拶をしてくる人がいる。といっても、それがどこのだれで、何をしている人なのかまで分からない。でも、一応、念のため? 反応しておくことにしている。
人影が疎らな昇降口を抜けて、階段を上り、少し息が切れたところで2年C組の教室が見えてくる。
今日はドアが開いていた。
私は制服の袖をぎゅっと握る。
教室にはいつも雑念が漂っていた。
それは耳を塞ぎたくなるほどのものだった。
それぞれの言葉が不協和音を奏で、その重みを削ぎ、軽々しく飛んでいる。そっと触れてみても、何の中身もない。ひどく疲弊するだけのものだった。それなのに、どうしてか、みんな笑っている。
席についた私は机の中をがさがさとあさる。
詰め込まれた教科書たちが折り目をつけて顔を覗かし、それに絡まるようにして飛び出たのは昨日提出の課題だった。私はぎょっとした。目が合った彼らも私と同じようにぎょっとしてみせて、何もなかったと、私は急いで彼らを元いた場所へと戻してやった。
日々の残骸はこうやって、私の心をつまむ。
飛び上がった鼓動をなだらかにして、生きている痕跡を探った。
違う、これでもない。
私の朝はいつもこうだ。あれも、これもないって喚いて、でも声にはしないで、一人、心の中の私? と話している。どうしていつもこうなってしまうのだろうか。
あった。
やっぱり、ここにあったんだ。
手のひらに収まるサイズの機器を耳につける。
音が遮断されて、私が好き? な言葉が耳から流れてきて私の心をノックした。もちろん、私は快くそのノックを受け入れて言葉に浸る。
こういうのを世間一般的には推しと言うらしい。久しぶりに会った従妹にこのことを話したら、それは推しだよと言われたから、多分そういうことなのだろう。私にはその推す? がどういうことなのか分からないけど、鼓動が早まるということだけは知っている。
私は耳に体を預けた。
鼓膜を震わせる穏やかなリズムが、次第に早くなり、音も厚みを帯び始める。メロディーに付着する言の葉が重みを増し、葉の擦れるような囁きが確かなる音となる。いつもここで胸が苦しくなる。どうしようもない感情が私の中の私に語りかけてくる。
この気持ちは何だろうって。
肩を叩かれる。
イヤホンは私ではない誰かによって外された。
静まった世界が待っていた。
もう一度、私は肩を叩かれる。
俯いていた顔をあげた。
そこには、眼を鋭くさせた白髪の男性が立っていた。
「これ、没収な」
男は私の大切? を奪い、さらに手をこちらに差し出してきた。
「それも」
スマホまでも欲しいという。
誰かの声が聞こえた。空気に潜むような透明な音だった。でも、言葉は濁っていた。透明な水溜りに波紋が広がり、アスファルトから滲む汚れが飛び出してきて色を付けていく。あまりの汚らわしさに心は悲鳴をあげていた。
震える唇をぎゅっと結ぶ。
いや、と私は私に語りかける。
無色透明は従順なのだ。
手にあるスマホを渡そうとした瞬間、男はそれを乱暴に奪い取った。
男はぶつぶつ何かを言って、私から離れていく。
なんだろう。
わからない。
私はこの世界をよく知らない。
――私の生きる場所はここであっていますか?
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