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4
時間が大人を連れてきてくれると思っていた。体の成長と共に、やりたいことが見つかって、できることも増えて、立派なれる。そんな未来をどこかで描いていた。
でも、目の前にあるのは白紙のプリントだった。
「これはどういうことなんだ。新山」
しわが刻まれた頬がぴくぴくと動いた。
これは怒っている証拠だって、田中さん? が言っていた気がする。それが分かったところで、私に怒りを鎮めるスキルもなく、ただただそれをじっと見つめるしかなかった。
「新山! 聞いているのか。お前だけなんだぞ、これ書いていないの」
白髪の男は唾を飛ばして、激しく言葉を捨てた。
何度も机を叩くその指先には、進路調査票と書かれたプリントが横たわっていた。
職員室の薄い空気を吸う。
将来何になりたいのか。大人になりかけた子どもたちはそう問いかけられる。いつしかなれると思っていた大人は、何も自然になれるものでもなく、いつしかそうなるわけでもない。こちらから、踏み出さなければ、ずっと子どものままなのだ。嘆かわしい現実が、突如として突きつけられる。
私は大人になれるのだろうか。
深海に沈むような意識が降ってきて、そうなると、白髪の男はきまって鋭い眼光をこちらに向け、聞いているのかって怒気を含む。
どうしてという想いを引きずって、私はとりあえず、頷いてみせる。
男は深いため息をついた。
「お前はもっと大人になりなさい。いつまで経っても誰かが決めてくれる
わけじゃないんだ。少しは自分でどうしたいのか、どうなりたいのか考えてみなさい」
欺瞞に塗られた言葉は浸透しない。
教室に漂う雑念と何ら変わりはないその音を聞きたくなかった。耳を塞ぎたくなる。でも、私はそれが出来ない。
では、何ができて、何をしたい。
それもわからない。
分からないが山のように積もって、何もかも投げ出して、自由になりたい。
一滴の雫が、心に落ちる。
無性に、あの言葉が聞きたくなった。
「つまりな、頷くだけじゃなんも分からん」
私は頷く。
また、ため息が聞こえた。そこには、息を吐くだけではない、色々な気持ち? があるように思った。だから、何かを言おうと思って、必死に考えるも、肝心の言葉は膨らんで弾けていった。
言葉は私たちを縛り、足取りを重くさせる。でも、私は私なりの言葉を探す。ずっと暗闇で光も希望もない。それでも不確かな足取りで進む。
そんなことを続けてきた私は逃げることが癖になっていた。
春風と共に職員室を飛び出して、喧騒広がる廊下を抜け、昇降口をくぐって、中庭に出た。
そこには大きなソメイヨシノが立っている。
風が前髪を巻き上げる。
春の風は強い。あらゆる想いもそれと一緒に飛んでいってしまいそうだ。
誰かの笑い声が聞こえた。
お腹のさらに奥のところが熱くなる。体は寒くもないのに震える。分からない感情? に晒されて、嗚咽が漏れそうになり、横腹をつねる。痛みで誤魔化した先には、桃色の花びらが舞っていた。
ひらりひらりと足元に転がった。
それを優しく拾い上げる。
無色透明の膜が剥がれ落ち、色が私に塗られそうになる。
あぶない、あぶない。
「また、何か悩んでいるのかい」
ソメイヨシノが喋った? と驚いた向こう側には左頬にあざを作った男が立っていた。私はその人に身に覚えがなかったが、男は私を見て嬉しそうに微笑んだ。
「いやー恥ずかしながら、またやられちゃってね」
春のような人だと思った。
モノトーンな世界を、枯れた草花を、全て一変させてしまいそうな空気を纏っていた。
「なんだ、覚えていないのかい。まいったな。結構、ここで新山さんと話していたと思ったんだけどね。ほら、お友達の作り方とか……って覚えてないよね」
はにかんで頭を掻いたその姿に、私はまた言葉を探していた。
「なんかさ、色々押しつけられちゃってね」
左頬のあざを撫でる。
「教師って、いい仕事だと思っていた。向いているとも思った。でもさ、いざ蓋を開けたら、勉強を教えるだけじゃないんだよ。本当に何してるんだろうって」
どうしてか、私はこの男に推しを紹介したくなった。
だけど、どうやって言葉にしようか。
「みんなに楽しく勉強してもらえるようにって頑張っているのに、いつもやっているのはケンカの仲裁やクレーマーの対応。そんなことがしたくて先生になったわけじゃないのに……生きるって難しいな」
春の陽気が鼻孔を抜けた。
「大丈夫です……」
その言葉に男は困るようにして笑った。
紡ぎかけていた言葉は遮られ、もう何も言えない。
私が大事? にしていたものが崩れていく。
「ありがとう」
その言葉を残して、男は二度と学校で見なくなった。
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