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着替えを終えて、家の中を箒にかける。朝の支度を終えると、二階へ炙ったパンと、温かいスープを持って上がる。扉をノックし、開けると、メアリはベッドの上で起き上がり、窓から温室を見おろしていた。
しかめられている顔に刻まれた皴は、寝たきりになってから一層深くなっており、同じ歳のはずなのに、エドガーよりもずっと老けて見えた
「調子はどうだい」
「いつも通りですよ。お医者様はゆっくり養生するように言いますけどね、代り映えのしない景色を見続けて体調が良くなるものですか」
不機嫌さを隠そうともしないメアリの言葉には反応せず、机の上に食事を置く。
「それじゃあ、今日も早めに戻ってくるからね」
「そうあって欲しいですね。貴方がいなくなっては、私とあの花たちは飢え死にしてしまいます。趣味に身を割くのは結構ですが、伴侶のことも少しは気遣ってもらいたいものですね。景色の変わらぬ退屈をぼやいた瞬間に、目の前で自分は家の外へ出てきます、などと……」
慣れたものだったが、メアリの言葉はやはり、エドガーの機嫌を急降下させた。溜息をついて部屋を出る。外套を羽織り、「行ってくるよ」と大声で伝えるが、返事はなかった。いつものことだ。妻にとって、エドガーの言葉はどれも聞き飽きたものばかりで、返事をする気すら起こせないらしい。
玄関を出たところで、並木道の木々が風に揺れるのが目に入る。春先の暖かさの混じった風に乗って、黄土色の花粉が舞い散るのを幻視したエドガーは、不快そうに目をしかめ、マスクを着けて仕事先へ向かった。自宅から数キロ離れた先にある小物店は、エドガーの趣味が高じて始めたものだった。
毎月かかる費用は趣味にしては少し高い程度だが、それでも若いころの貯えで、二人を食わせるには充分な余裕があるはずだった。
だがメアリはそれでも気に食わないらしく、何かにつけて嫌味を言ってくる。店内を掃除している間も、彼女の言葉を思い出すと、苛立ちにため息が出てきた。
私の趣味がダメなのなら、お前のガーデニングはどうなんだ。それも最近では私が世話をしてばかりで、お前はただ二階から見ているだけじゃないか。詰め寄りたくなったことは一度や二度ではない。
マスク姿のまま、一晩の間に商品に降った埃を刷毛で払いながら、妻に、メアリに愛情を感じなくなったのはいつからだったのだろうか、とエドガーは自問した。家を出る瞬間、温室に厳重に鍵をかけている間、店について明かりを点け、昨日の売り上げの帳簿をチェックしている時、最近はそんなふとした時に、妻に関する思考が頭の中をよぎった。
結婚してから数十年、彼女を愛する努力はしてきたつもりだった。趣味が高じて始めた手作りの小物を売る店も、二人が食うには困らない程度には稼げていたし、温室や花壇だって、わざわざ休日を潰し、腰を錆びた機械のように軋ませながら頑張って作ってやった。
その頃の感情はもう思い出せない。
私はあの温室を作る時、彼女の笑顔を想像していただろうか。そんなものを、期待していたのだろうか。
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