ペラルゴニウムの返礼

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 集中が出来ない。帳簿に書き入れていても、たまに来る客に対応していても、頭がぼんやりとする。  まだ春になりかけだというのに街中を飛び交い始めた花粉は、解放している店のドアや窓から容赦なく入り込み、マスク越しでもお構いなしに、エドガーの目や鼻を通り抜けていく。いっそ眼球ごと引き抜いて桶に貯めた水で濯げたならと、幾度も馳せた妄想をなお繰り返しながら、エドガーは朝から圧し掛かる陰鬱で不快な思いと共にあった。  春。そう、春が来る。エドガーにとって春という季節は歓迎できるものではなかった。白や黄色や薄紅色や、太陽の光をチカチカと強めるような明るい色とりどりの花が咲き誇っても、エドガーの目は花弁や木々が風に揺らめくたびに、そこから噴き出る黄と土が混ざった薄汚れた色の風を幻視する。それを全身に目一杯浴びでもしたらと思うと、今にも叫びだしたくなった。  日差しが強いからか、朝の寒気と打って変わって、妙に暑い。毛糸のシャツの襟が首にチクチクと刺さり、苛立ちが募る。考えなくてはならないことは山積みなのに、呑気な風が運んで来る黄土色の花粉が、エドガーの邪魔をする。目が霞む。鼻が詰まる。ティッシュを取ろうとしたが、中身が空だった。目の前の景色が、緑と熱と花粉に囲まれた温室の中と重なった。店の奥からも、黄土色の風が吹き込んで来ている気がする。  耐え切れず、店に準備中の札をかけると、エドガーはもどかし気に服を脱ぎ、シャワー室へと飛び込んだ。老体には毒な冷水のシャワーを頭から浴びながら、嗚咽のような叫び声を上げた。趣味に興じた店の中も、今のエドガーを落ち着かせてはくれない。  日が暮れるより早く、エドガーは店を閉め、足早に帰路についた。  家に戻ると、玄関ではなく庭へと向かい、飛び込むように温室に入り、扉を閉め、マスクを外して大きく呼吸をする。熱気と湿度の籠った空気だったが、それでもいつまでも吸っていたいと思えるほどに爽やかだった。  息を落ち着かせ、いつものように水をやり、肥料を撒いた。目の前で咲き誇る大輪の花達を見ているうち、エドガーの心は穏やかに落ち着いていく。 「あぁ、私を癒してくれるのはお前達だけだ。愛おしい、まるでついぞ生まれることのなかった我が子のようじゃないか」  花壇から伸びる、添え木代わりの柱。目をほころばせ、そこに巻き付く蔦植物の大きな花弁に優しく触れる。小さな水滴が皴の刻まれた指に吸い取られていく。  それはまるで、エドガーの心に潤いを与えようとしているかのようだった。
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