昔 東京の片隅で 第6話

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昔 東京の片隅で 第6話

               【1】  春でした。  身を切り裂くような木枯らしは、いつしか母の温もりに似た風に変わり、 人々は無意識のまま背伸びをしたり、顔をほころばせては、全身で春を感じていました。  その春の日差しがまばゆい日曜日の朝。  老人は公園のベンチにすわって、満開の桜を眺めていました。  老人は高血圧です。  おまけに血糖値も高いうえ、肝硬変もわずらっていて、いつ恐ろしい病魔が襲ってきても、おかしくない身体でした。  ワシはあと、何年生きられるのだろう。何年、生きることができるのだろう。でももう、この世に未練はないな。なぜならワシの人生は少年の頃に終わってしまい、あとはダラダラと、余生を過ごしていただけなんじゃから。                ■  老人が満開の桜を見ながらそんなことを思っていると、犬を連れたひとりの女の子が、老人に声をかけました。  おはようございます。お爺ちゃん。  今日も、天気がいいですね。  女の子は中学生くらいの年齢でした。  でも女の子は、花粉症なのでしょうか。  顔に大きなマスクをしているため、顔がよく分かりません。  けれど老人は女の子の瞳に親しみを覚えたので、頬をゆるませ、 「いい天気じゃのう」と、応えました。 すると女の子は、 「隣に座ってもいいですか」と訊くので、老人は笑顔を見せながらその言葉にうなずき、少し身体をずらしてベンチの横を空けました。                ■  しばらく当たり(さわ)りのない話をしてから、女の子は言いました。  わたしね、ずうっと前からここにお爺ちゃんがいること、知っていたんですよ。  だからわたし、その頃から、声をかけようって思っていたんです。  ほう、と老人が感心すると、女の子は言いました。  わたしね、クラスで学級新聞係をしているんです。  それでね、わたし、昭和という時代に興味があって、それをシリーズで学級新聞に載せたいって思っているんです。  だからお爺ちゃんに、昭和の話、聴かせてほしいなって、考えてるんです。    老人はその言葉に笑ってうなずき、自分が記憶している昭和の出来事を話しました。   音楽ではエレキブーム。グループサウンドブーム。そしてフォークブーム。  若者を熱狂させたのには、インベータ―ゲームというのもありましたね。 大きな社会的事件では、よど号ハイジャック事件。府中の三億円強奪事件。東大安田講堂事件。あさま山荘事件。なんてのもありましたよ。                ■  老人はひと通り昭和の話をしたあと、最後に、 「懐かしいのぉ。ワシも中学生の頃、クラスで新聞係をしておったんじゃ」 と、女の子に話しました。  えっ、お爺ちゃんも新聞係をしていたの。  わたしと同じですね。すごい偶然ですね。  でもその新聞係、ひとりでしてたんですか。誰かと一緒にしてたんですか。  女の子が目を輝かせて訊ねるので、老人は目を細めながら、 「同じクラスの女の子と一緒だったんじゃ」 「実はワシは、そのときその女の子が好きになってのぅ」と、答えます。  すると女の子が訊ねました。  わぁ、それってもしかして、お爺ちゃんの初恋ですか。  老人が照れ笑いをすると、女の子は、 「そうだ。お爺ちゃん。今度お爺ちゃんのその初恋の話を聴かせてください」 「いいでしょ。お爺ちゃん」  老人は顔をほころばせ、答えます。  そうじゃな。じゃぁ今度会ったときに、その話をしてあげよう。                ■  やがて老人は、遠くを眺めました。  そこには澄んだ青空にぽっかりと浮かぶ雲が、何かの姿を連想させながら、ゆっくりその形を変えつつありました。  老人はその空をあおぎながら、記憶の糸をたぐり寄せ、その糸で初恋の頃の自分を、脳裏に再現させるのでした。  公園に植えられている桜の樹木たちは、その淡いピンクの花びらを惜しげもなく咲かせ、やがてひらりひらりと老人と女の子が座るベンチに、その花びらを散らします。  そして風はときおり、ふわりふわりと女の子の髪を揺らしたりします。  そのたびに女の子は目を糸のように細め、老人に親愛を込めた微笑みを送るのでした。                【2】  翌週の日曜日も、穏やかな朝でした。  老人が公園のベンチに座って、はらりはらりと散る桜をながめていると、そこへ犬を連れた女の子が、大きな花粉用マスクをしながらやってきました。  お爺ちゃん。おはようございます。  女の子は老人が座っている同じベンチに座り、お爺ちゃんをうながします。  さあ、お爺ちゃん。今日はお爺ちゃんが、初恋の話をしてくれる日ですよ。  わたしはそれをずうっと、楽しみにしていたんです。                ■  老人と女の子の出会いは、先週の日曜日のことでした。  いつものように老人が公園のベンチで休んんでいると、犬に散歩をさせている女の子が、話しかけてきたのです。  クラスで学級新聞係をしているんです。  お爺ちゃんから、昭和の話を聴きたいんです。  そうして女の子は学級新聞の記事になりそうな昭和の話を、お爺ちゃんから聴くことができたのです。  そして今日はお爺ちゃんが、自分の初恋のことを、女の子に話すことになっていたのでした。                ■  あれはワシが、中学二年生のときじゃったよ。  同じクラスの女の子と学級新聞係になっての。  老人は懐かしさでいっぱいの思い出の宝箱を、女の子の前で(ほど)き始めました。  ワシはいつもその女の子と一緒に、学級新聞を作っておったんじゃ。  で、そうしているうちワシは、その女の子が好きになってしまったんじゃ。  それがワシの初恋じゃった。  老人は女の子を見つめながら、話を続けます。  ワシはその子と目が合うと心臓がドキドキしてのう。  明けても暮れてもワシは、その子のことばっかり考えておったんじゃ。  それで中学三年生になったばかりのとき、ワシは勇気をだして近くの穴守稲荷神社で、その子にラブレターを渡したんじゃ。                ■  そうして老人は遠くを眺めながら、胸の(うち)に秘めていた思いを少しずつ、少しずつ、言葉にしてたぐり寄せるのでした。  あれは顔から火が出るほど、恥ずかしかった。  もうワシはその女の子の、顔も見れんほどじゃった。  地面を見て、ただ唇を噛んでるだけじゃったんじゃ。  するとその女の子はワシにな、わたしも好きですって打ち明けてくれての。  ワシはそのとき、天にも昇る気持ちだったんじゃよ。                ■  老人はそこまで話すと、黙り込みました。  おそらく思い出を咀嚼(そしゃく)しているのでしょう。  そして話す順番を、考えているのでしょう。  そうしてしばし沈黙したあと、意を決したようにやがてその続きを話しだしました。  でもその女の子はなんと、その日のうちに死んでしまったんじゃ。環状八号線の交差点で、大型ダンプに撥ねられて。                ■  そこまで話すと老人は、おおきなため息をつきました。  そして空に視線を泳がせ、心をあの日にさまよわせながら、あの日あのときの出来事を脳裏に再現させるかのように、そっと目を閉じました。  その閉じた目からは、静かに涙がこぼれ落ちてます。                ■  そこまで黙って聴いていた女の子は、やがて老人に言いました。  横断歩道の前で、その女の子とお爺ちゃんはバイバイしたんだよね。  でもその途中、お爺ちゃんは言い忘れことがあって、大きな声で女の子を呼び止めたんだよね。  すると女の子は急にお爺ちゃんの方に走ってきたので、凄いスピードで左折してきた大型ダンプに、撥ねられてしまったんだよね。                ■  老人に戦慄が走りました。  息が止まりそうになりました。  そして老人は目を丸くして、目の前にいる女の子を凝視しました。  お嬢ちゃんはどうして、そんなことを知っているんだ。  ワシはそのことを、今まで誰にも話したことなんてないんだぞ。  死ぬまで誰にも、話すつもりなんてなかったんだぞ。  だってあの子が大型ダンプに撥ねられたのは、ワシのせいだったんじゃから。ワシが死なせてしまったようなもんじゃったから。                ■  すると女の子が言いました。  まだ気がつかないの。ブンジロウくん。  わたしがあのときの、ミチカだよ。  一緒に学級新聞を作っていた、ミチカだよ。  女の子は老人を見つめながら、ゆっくりと花粉用大型マスクを外しました。  でした。  するとマスクを外した顔は、老人が中学生の頃、一緒に学級新聞を作っていたミチカちゃんでした。  今、そのミチカちゃんが、七十年前そのままの顔で、老人の横で微笑んでいるのでした。                ■  老人は絶句しました。  腰が抜けるくらい、驚きました。  ミ、ミチカちゃんなの。ほんとうにお嬢ちゃんは、ミチカちゃんんなの。  女の子は老人の手に自分の手を重ねて、老人に微笑みます。  そして言いました。  七十年間、わたしはお空から、ずうっとブンジロウくんを見ていたよ。  でもやっと、お許しが出てね。  今ようやくこうして、会いに来ることができたの。  女の子は老人の、すっかり髪に毛が抜けた頭を撫でました。  そして言葉を続けます。  ばかだね。ブンジロウくん。  あれから結婚もしないで、ずうっと独りでいたなんて。  ほかにお嫁さんを貰ったって、わたしはちっとも構わなかったのに。  老人は女の子の胸元に顔を寄せ、少年の頃の自分に戻って泣きじゃくりました。  だってね。だってね。ミチカちゃん。  ぼくはあのとき、大きくなったらお嫁さんになってくれってミチカちゃんに言おうとしたんだ。  だから呼び止めたんだよ。  そうしたらミチカちゃんが急に戻ってきて、大型ダンプに撥ねられたんだ。  ミチカちゃん。ごめんよ。ほんとうにごめんよ。  ミチカちゃんが大型ダンプに撥ねられたのは、ぼくのせいなんだ。  ぼくがミチカちゃんを、死なせてしまったんだ。                ■  桜の樹の下のベンチ。  気がつくと、ひらひらと舞い降りていた桜の花びらは、やがて(まわ)りを淡いピンク色に変えて、ベンチに腰掛けているふたりを覆いつくすのでした。  降りしきる花びら。雪のように舞う花びら。  その桜の花びらはやがて、地面までも淡いピンクの絨毯(じゅうたん)に変えていきます。                ■  その日の午後。  たまたまその公園で遊んでいた小さな男の子が、ベンチに座ったまま動かない老人を不思議そうに覗き込んでママを呼びました。  ママ。このお爺ちゃん、さっきから動かないよ。  息もしてないみたいだよ。  ママが老人に近づくと、その周辺で不思議なことが起こりました。  つむじ風でしょうか。それともただの、風のいたずらでしょうか。  見るとその老人の周りでたくさんの花びらが、くるくる舞っ踊っているのです。  その光景はまるで妖精たちが、老人の周りで舞い踊る姿に似ていたのでした。                                 《了》       
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