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琴故郷へ
「刀やスナイドル銃じゃなくて、まさか鍬を持つとはな」
「しかしこの寒さは耐えられんな」
「それにしてもでけえ根っこだ。掘れやしない」
明治五年(1871年)『松ヶ岡開墾場』において、旧庄内藩士三千人が開墾事業に携わった。新徴組も否応なく従事することになる。中沢琴も兄・良之助と共に開墾に仕えた。
松ヶ岡開墾場は廃藩置県の折、旧藩家老菅実秀が旧藩士の先行きを考え、養蚕によって日本の近代化と庄内の再建を担うべく行った事業だった。
明治七年には壮大な桑園が完成し、明治八年から十年には大蚕室十棟が建設された。その後、鶴岡に製糸工場と絹織物工場が創設されていった。
しかし、新徴組は関東周辺の出身者が多数を占めていたため、慣れない東北地方での開墾生活は苦痛を伴うものだった。そのため脱走を試みる者が相次ぎ、脱走者に対し庄内藩は切腹・討伐等の厳しい処置で臨み、往時は二百名近い組士がいた新徴組は、十年後の明治十四年七月の再調査では十一名のみに減少していた。
市中取締まりで江戸市民に歓迎され、東北戦争を最後まで戦った新徴組だったが、戦うことには命を惜しまなかった猛者揃いであった分、その最期はなおさら悲しいものがあった。
ここが、悲劇の白虎隊を生んだ会津藩や、ひとり残らずと言っていいほど散っていった新選組と違い、歴史に埋もれていった原因かもしれない。
明治七年、中沢琴と兄・良之助は故郷の群馬県利根郡へ戻った。琴はそのとき三十代で婚期を過ぎていたが、男装を解いた彼女の美しさは誰の目にも明らかで、多くの男たちから求婚された。嫁に欲しいと申込む男にはこう断っていたという。
『自分より弱い者のところには嫁には行かぬ、欲しくば打ち負かせ』
「それで終わりですか。わたくしを嫁に欲しいのなら、腕を磨いて出直してきなさい」
稽古着姿の琴は、道場の壁際に並ぶ男たちに竹刀を向けてにこりと笑った。
もとより剣の腕に優れ、実戦を積んできた琴に勝てる者などいるはずもなく、生涯を閉じるまで独身で過ごしたといわれている。琴は酒を飲むと詩を吟じ、剣舞も舞ったと伝わっている。
※『群馬人国記』などの郷土史によると、一度結婚をした可能性もある。
『娘達に惚れられて困った』美しき女剣士・中沢琴は、江戸・明治・大正・昭和と四つの時代を生きて、昭和二年十月十二日に、およそ八十八歳と思われる生涯を終えた。
─fin─
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