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鳥羽伏見の戦い勃発
慶応三年十月十四日(1867年11月9日)将軍・徳川 慶喜の大政奉還により政権は朝廷に返上された。しかし政治は旧幕府時代のままだった。
業を煮やした倒幕派が朝廷を動かし、同年十二月九日『王政復古の大号令』の元新政府を樹立。幕府勢力の武力討伐を唱え、幕府を支持する諸藩の大名と衝突することになる。
翌慶応四年(1868年)一月三日、戊辰戦争の初戦となった鳥羽・伏見の戦いは、伏見奉行所に本陣を構えた土方歳三率いる新選組や会津藩兵を含む旧幕府軍と、御香宮神社(京都市伏見区)に陣を敷く薩長を中心とする新政府軍の間で勃発した。
兵力五千の薩長軍に対し、旧幕府軍は一万五千と圧倒していたにもかかわらず一敗地に塗れた。むろん敗因はひとつではない。
伏見にあった淀藩の裏切りも大きかった。逃げ込もうとした旧幕府軍に対し淀城への入城を拒絶したのだ。淀藩につられるように津藩も離反した。
幕府軍はやむなく大阪城へと敗走していく。徳川慶喜は十分な兵力があるにもかかわらず江戸へ逃走した。
敗戦の原因を装備の差とされることが多い。確かに会津藩兵や新選組などは刀や槍を主装備とする旧態依然の部隊であったが、旧幕府軍の主力である歩兵隊は前装式ライフル銃に加え後装式ライフル銃まで有していた。戦略のなさが大きく影響したのだろう。
越前、尾張、土佐藩主が慶喜を新政府に参画させようと工作を行い、徳川八百万石の大大名との戦争を嫌った岩倉具視の懐柔に成功したが、『大兵を以て入京する』と主張した会津、桑名藩との足並みがそろわなかったことにも原因はある。
なにより、俄仕立ての贋作ではあったが、新政府軍が揚げた『錦の御旗』が、朝敵になることを恐れた諸藩に動揺をもたらした。
北上してくる新政府軍に、陸路をとった幕府軍は東北へ引き、海路をとった榎本武揚・大鳥圭介率いる旧幕府軍は蝦夷(北海道)を目指し、五稜郭の戦いへと突き進んでいった。
徳川幕府の終焉で、各藩は朝廷か幕府かで二分され、庄内藩にも徳川慶喜の追討命令が出された。主従関係の恩義から徳川家に矢を向けることを拒んだ荘内藩は追討の対象となる。
会津藩ともども新政府軍から朝敵の汚名を着せられた庄内藩は、ついに戦いに立ち上がる。会津を最も警戒していた新政府軍だったが見誤っていた。戊辰戦争の最後まで無敗を誇った奥羽の眠れる獅子、庄内藩を揺り起こすことになったからだ。
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