榎本武揚

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榎本武揚

 慶応四年九月二十四日、庄内藩は新政府軍へ降伏を申し出た。その際、参謀の黒田清隆より伝えられた処分はきわめて寛大なものであった。一人の切腹者も武器の没収もなく庄内藩士は帯刀を許された。敗戦側が帯刀を許されるなど考えられないことだった。 ※黒田清隆のついでに短くふたりの人物を書いておきます。  五稜郭の戦いを指揮した薩摩の黒田清隆は、福沢諭吉とともに幕府の海軍奉行だった敵将・榎本武揚の助命に奔走することになる。  箱館に築かれた蝦夷共和国は最後の砦だった。しかし戦況は悪化し榎本率いる旧幕府軍は五稜郭にこもり新政府軍との戦いに挑んだ。土方歳三は(たお)れ生き残りはわずかだった。  そのとき榎本はある行動を起こす。肌身離さず持っていた前頁オランダ語で書かれた「万国海律全書」を戦火の灰にしてはならないと、新政府軍本陣の黒田に送ったのだ。「これからの日本のために役立ててほしい」と。 bd0d026d-2ac3-49da-8b3f-f3b5146365a6  榎本の人柄に心打たれた黒田は、その返礼として酒樽五本とマグロ五本を榎本軍本陣の五稜郭に贈り、酒樽を受け取った榎本軍はその酒で最後の宴を催した。そして酒宴の翌々日、黒田が率いる新政府軍は五稜郭へ総攻撃を行い、箱館戦争最後の激戦が始まった。  しかし最終的には、これ以上の抵抗は無意味と悟った榎本は五月十八日、新政府軍に降伏し、蝦夷共和国は崩壊した。  榎本は新政府の一員となり当時日本が抱えていた外交問題を得意な外国語で救うことになる。さらに黒田清隆が第二代総理大臣の座に就いたとき、支えたのは大臣を歴任した榎本だった。さらに明治三十二年には榎本の息子と黒田の娘が結婚。二人の交友は血縁関係にまで発展することになる。  それはさておき。 「敵となり味方となるも運命ごわす。一度帰順した以上は兄弟同様。いつまでん敵視すっべきではあいもはん」  藩主のために命を懸けた武士を貶めてはならないと西郷は黒田に諭した。 「すでに戦が決して帰順しちょっじゃっで、荘内藩は旧領地に安堵させっべきじゃ」  庄内入りの前、総督府の中で西郷が主張したところ、長州の大村益次郎(おおむら ますじろう)が強硬に反対をした。  当時臨席していた土佐藩士・佐々木高行(ささき たかゆき)は『公明正大な西郷と、陰有り後ろ暗き人の多き長州人』と、この様子を表現している。 ※佐々木高行=板垣退助、後藤象二郎と並び、土佐三伯の一人とされる。坂本龍馬とともに大政奉還の策を練り、龍馬亡き後の海援隊の後ろ盾になった人物。龍馬の紹介で長州の桂小五郎(木戸孝允)と会見している。  龍馬が高行に宛てた宛名には「佐々木先生」や「佐々木大将軍」といった敬称が使われ、いかに龍馬が高行を頼りにしていたかがわかる。  長州藩というのは敵方の責任者を処刑にしたがる傾向が強かったようだ。これを戦闘員が武士階級が多い薩摩と農民階級が多い長州との落差と推測する向きもあるようだが……。  九月二十七日、北越出征軍の総指揮官として荘内入りした西郷隆盛は、帰順した荘内藩からの城受領を部下の黒田清隆に任せ、自分は荘内藩士の前に出ることはなかった。
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