西郷隆盛と菅実秀

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西郷隆盛と菅実秀

 明治二年(1869年)のはじめ、庄内藩中老であった菅実秀(すげ さねひで)は新政府軍参謀・黒田清隆を東京に訪ね、寛大な措置に対する感謝の意を伝えた。  そこで、すべては西郷隆盛の指示に従った処分であることを伝えられた菅は、初めて西郷の存在を知ることになる。菅はその懐の広さに感銘を受け、この後、明治四年(1871年)に西郷との対面が叶う。  東北戦争を最後まで戦い続けた庄内藩の反逆が、新政府軍の中では恐れのひとつだった。藩主は隣国の大名などに預けるべきという意見が多くあった中で、西郷は一貫して寛大な措置を指示した。    明治三年(1870年)旧庄内藩主である酒井忠篤(さかい ただずみ)は鹿児島へ使者を送り、留学を乞う親書を薩摩藩主と西郷隆盛宛に渡した。面会が叶った際の西郷は誠実な人柄で使者にも丁重に対応したといわれている。  その後、忠篤は旧藩士たちを引きつれ、鹿児島を訪れることになる。その中には旧庄内藩だけでなく旧出羽松山藩からの旧藩士も含まれ、総勢は七十余名にも及んだ。西郷が創設した「私学校」に入学を認められ、その教えを学んでいった。 a5db7ed9-de28-495a-a0ba-a88fdb7a80a5  忠篤も一書生として西郷に師事し、一兵卒として桐野利秋(きりの としあき)篠原國幹(しのはら くにもと)ら大隊長の指揮によって鉄砲を担ぎ、軍服を着て調練に励んだ。 ※桐野利秋(中村半次郎)=陸軍少将。幕末の京都を震え上がらせた四大人斬りの一人で「人斬り半次郎」と恐れられた男。  彼を知る人は「男らしく豪放で快闊」「上下貴賤を問わず気さく、敵に対しては鬼にもなったが、一方で慈悲の心もあった」と評された男だった。  西郷下野の後を追い明治政府を去った。 ※篠原國幹(しのはら くにもと)=陸軍少将。近代陸軍、近衛隊の創設に尽力した。明治四年、陸軍大将の西郷とともに明治天皇観覧の陸軍大演習に参加し、暴風雨で天皇自らも全身ずぶぬれになる中、篠原が指揮をとり、見事な奮戦ぶりを示した。その後、天皇が彼を近くに召し、篠原に習えという意味から「今日よりこの地を習志野原と名づけ、操練場と定む」と褒めたたえた。これが現在の千葉県習志野の地名の由来といわれている。(習篠原→習志野原)  桐野と同じく、西郷を追って鹿児島に戻った。  西南戦争は明治政府による西郷暗殺計画を知った私学校徒が暴発したものだった。視察と刺殺を間違えたという説もある。武力蜂起など望んでいなかった西郷も、私学校徒に巻き込まれていく。 「お国へ戻りやんせ。下手をすれば戦いになりもんそ」 「今般政府に尋問の筋これあり」  明治十年(1877年)東京に向けて軍を進める際、当時私学校で学んでいた旧庄内藩士の伴兼之、榊原政治の二名は帰郷の勧めを断り、西郷と運命を共にする。熊本城攻撃、田原坂の戦いなどに従軍し、両名とも九州の地で戦死した。二人は今も鹿児島市の南洲墓地に西郷隆盛とともに眠っている。  西南戦争が始まった当時の政府には、西南戦争に呼応して庄内が反乱を起こすとの見方が強い中、西郷を助けんと血気にはやる旧藩士らを押さえたのは菅実秀だった。
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