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鶴ケ丘城明け渡し
最後まで抵抗を続けた庄内藩には、藩主酒井忠篤以下、相当に厳しい処分が下されるだろう。そう思い切腹の覚悟で沙汰を待っていた。ところが、下された処分は非常に寛大なものだった。
西郷は藩主や重臣の切腹を認めなかったどころか、庄内藩が差し出した武器一切の目録も受け付けなかった。
「貴藩は日本海に面しちょいもす。いつ何時欧米列強が襲うてくっかわからん。武器はそんまま持ちやったもんせ、ち。黒田さぁ、そう伝えやんせ。一度負けを認むれば敵も味方もなかとじゃ」
官軍を丸腰で入場させる一方で、庄内藩士には帯刀を許した。庄内藩の処分も藩主酒井忠篤に謹慎を命じただけの軽いものだった。寛大すぎる処置に官軍内部から不満の声が上がったが西郷は退けた。
「武士が一旦兜を脱いで降伏した以上、武士ん一言を信じっとが武士ちゅうもんじゃ。もし反逆すりゃまた討てばよかだけんこっごわす」
参謀黒田清隆が言渡しの後、藩主酒井忠篤の下座に回って礼を尽くす姿に庄内藩の面々は驚くことになる。
鶴ヶ岡城の御門から酒井忠篤が姿を現した。まだ十代の若者だった。長身に武者装束の陣羽織。忠篤は庄内の空を見上げ、一歩を踏み出した。
道の両側には薩摩藩兵が並んでいる。前装式ライフルのミニエー銃も見えるが、多くは後装式のスナイドル銃だ。
とそのとき突如、喇叭が庄内の空に響き渡った。
「連隊ぁい、気をつけ!」
素早く銃床部を下に右足の横に立てる薩摩藩兵たち。
「捧げぇ筒!」
銃の真ん中あたり先台に左手、銃座あたりに右手を添え体の真ん中で垂直に銃を捧げ持つ、最高位の敬礼に当たる。
「回れー右!」
右足を引き、薩摩藩兵が一斉にくるりと背中を見せた。一糸乱れぬ姿だ。
「兄上、背中を見せるとはどういうことでしょうか」琴は良之助に小声で尋ねた。琴はもちろんのこと庄内藩士は帯刀しているのだ。そこで背中を向けるとは。
「敵将を辱めるなということだろう。賊軍だった庄内藩主に最高の敬意を表そうとしている。薩摩が強いわけが分かった気がする」
「武士道」
「うん。薩摩は他藩の目をかいくぐり婦女子の人質を逃がすことも多かったらしい。もともと薩摩は他藩と比べて武士の数が多かったそうだ。比べて長州は農兵が多いと聞いた」
「斬りました」琴は少し、胸が痛んだ。
「それは琴、いたしかたがない。戦場で斬らねば殺される」
明治五年(1872年)酒井忠篤は西郷の薦めで兵学を学ぶためにドイツへ留学。
明治十二年(1879年)帰国した。
同年二月、大納言徳川慶頼の三女鎮子姫を夫人に迎える。
明治十七年(1884)伯爵を授けられた。
明治十八年(1885)酒田本間光美の勧めによって株式会社米商会所を創立。
明治二十三年(1890)三矢藤太郎、赤沢源也らに「南洲翁遺訓」を編纂させた。
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