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「……知紗様?」
男性は、知紗に近寄る。その瞬間、勝春からの手が離れた。
「勇佑さん……」
知紗は振り返り、男性の名を呼んだ。彼は葛原勇佑。東雲家の使用人で知紗のお付き。そして知紗の一番の理解者であった。
「外に出ると行ったきり戻って参りませんので、心配致しました」
「貴方に心配掛けるようなことをしたかしら?わたくしはお父様にきちんとお声を掛け、貴方にも声を掛けましたが」
「少し、と申されましたので……。もう四半刻(※約30分)ほど経っておりますし。もうすぐ帰ると旦那様がおっしゃっております」
「まぁ、そうでしたの」
知紗は素っ気ない態度で勇佑に話をすると、今一度勝春に声を掛けた。
「……今夜は、真にありがとうございました。ですが、わたくしの我儘に付き合わせてしまい、申し訳ございませんでした」
「いいえ。随分と良きお話でした」
勝春の言葉を不審に思いつつも、知紗は頭を下げる。
「ではまた、何処かでお会い出来ますことを……」
「ええ。……知紗様も、お元気で」
そう言うと勝春は颯爽と夜闇に消えて行く。顔を上げた時には、勝春の背中は小さくなっていくばかりで、無論知紗は見届けることしか出来なかった。だが、勝春が自分の名を呼んだことを知紗は聞き逃がしてはいなかった。
「あの、知紗様?」
知紗は暫し勝春が消えた先を見つめ続けていた。帰って来ることはないが、それでも勝春を追い求めたい気持ちが渦巻いていた。反対に、その感情を無視して勇佑は知紗の名を呼び続けている。
「何かしら?」
知紗は勇佑に振り向きもせず、返答する。
「先程のお方は……」
「勇佑さんもご存じでしょう?流矢家の方よ」
「あの、貿易商の方ですか?」
「ええ。……後でお父様にもお会いしたことをお話ししなければいけませんわ」
そして知紗は振り向き
「お待たせして申し訳ないわ。……行きましょうか」
知紗は勇佑の横を抜け、ホテル内に入ろうとした。
「まぁ……」
「知紗様?」
「なんと、綺麗な夜空だこと」
ふいに見上げた夜空に、知紗の頬は綻んだ。そしてまるで勝春の手を取るように、知紗は夜空の星々に手を伸ばしたのだった。
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