幸福の在処

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「このようなところで、何をしていらっしゃるのですか?」  ふと、男性の声が知紗の耳に届いた。一瞬空耳かと疑ったものの、視線が合うと男性は笑みを浮かべて知紗を見つめていたのだった。 「急に何でしょう?」 「すみません。女性がひとりで(たた)ずんでいるものですから、声を掛けずにはいられなかったもので」 「まあ。では、男の人ならば声など掛けなかったでしょう?」 「そ、そうかもしれません。ですが、この夜も更けた中で女性がひとりでいらっしゃれば誰でも声を掛けると思いますよ」  知紗の言葉に、少し面食らったような表情をした男性だったが、知紗と同じようにホテルを眺め、ふと呟いた。 「しかし、このホテル……でしたか。随分と大仰(おおぎょう)だと思いませんか?」 「大仰?」 「はい。何でも公家の方々が建てたと聞きましたよ。西洋に対抗する為に建てたのだとか……この江戸……いや、東京にもこうしたものが建つだなんて」  寂しそうにも聞こえる言葉だったが、知紗は男性の姿を見て息を吐いてしまった。 「そういう貴方様は西洋の召し物ではなくて?」  知紗は皮肉のように返す。男性は見慣れた小袖姿ではなく、背広姿だったのである。 「ああ、これはですね……異国と取引をするものですから、いつもの姿だと(わら)われてしまうのですよ」 「取引?……貿易商の方?」 「これは名を申すのを忘れていました。私は流矢勝春(ながれやまさはる)と申します」 「あらまぁ……流矢家の方でしたか」  知紗は名を聞いた瞬間、思わず口唇を引いた。 「これはご存じで」 「流矢家と言えば、貿易以外にも廻船問屋(かいせんどんや)などでも名を聞いたことがございましたので。お父様もお世話になっておりますわ。わたくしは東雲知紗(しののめちさ)と申します。以後、お見知りおきを」  知紗は小さく頭を下げた。
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