姉の婚約者

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その日、私はこっそりと屋敷を抜け出そうとしていた。 幸いに、私が逃げないと確信した鏡夜は数日前から部屋の前にいた使用人たちを通常の業務に戻していた。 必要最低限の荷物は持っていきたかったので、私に与えられていた部屋に立ち寄った。 「何、してるんだ?」 戸惑いながらかけられた声に私の足は、立ち止まった。 驚いて振り返ると、そこに居たのは洋介くんだった。 「……洋介くん」 数週間ぶりに見る洋介くんは、どこか吹っ切れた顔をしていた。 彼なりに何かしら思うところのあった数週間だったのかもしれない。 「部屋から出て大丈夫なのか?」 何の他意もなく、そう尋ねる洋介くんに私は協力してもらうことにした。 「ねぇ、洋介くん。……私をこの屋敷から逃げ出させて欲しい」 一瞬、難しい顔をした後に彼は了承した。 「……わかった」 そのあと、洋介くんは私に何かを聞くこともなく、屋敷の裏門に連れてきてくれた。 「すぐ外に、タクシーも呼んであるから」 「ありがとう、洋介くん。本当に、ありがとう」 瞳を潤ませながらそう言うと、彼は照れたように笑った。 そして真剣な眼差しになると、 「……それより、この間はごめん」 がばりと頭を下げてきた。 如何にも誠実そうに彼は謝った。 その変わりようといったら。 私は笑って、最後に少しだけチクリと刺した。 「随分、新しい女の子に感化されちゃったみたいだね」 私の言葉に洋介くんは目を見開いた。 「まさか、気付いてないとでも思ってた? 毎日のように、楽しそうだなって思いながら出掛けていく洋介くんを見てたんだから、嫌でも分かるよ」 未だ、口をぱくぱくさせている彼を放置して、私は扉を開けた。 「ありがとう、洋介くん。……ばいばい」 幸せにね、という言葉は飲み込んだ。 やられたことを完全に許せるほど、私は出来た大人ではなかったから。 タクシーの中で、脳裏に過ぎるのは彼のことだった。 彼の舌が、指が、腕が、何度も何度も私に触れた。 そのことに初めから、嫌悪感はなかったのかもしれない。 彼に抱かれることを嫌だと思いたかったのは、きっと彼が私のものではないと知っていたから。 彼に声を聞かせたくなかったのは、彼に愛されていると思ってしまうのが怖かったから。 ……私はたぶん、一目見たときから彼のことが好きだった。 次の瞬間には、失恋していたのだけれど。 ぽろりと流る涙をそのままに、私は自分のお腹に手を当てた。 彼の声が好きだった。 彼の指先が好きだった。 何ひとつ優しい記憶なんてないけれど、それでも私は彼を好きだった。 それはもう、どうしようもないことで。 身体から始まる恋もあるのだと、今身をもって知る。 近くのホテルにタクシーが停まり、私はドアを開けた。 そこから一歩を踏み出そうとした私の身体は、誰かの力強い腕に閉じ込められる。 嫌というほど記憶に叩き込まれたその匂いに、私は息が詰まりそうだった。 「……ど、うして」 絞り出すように紡がれたのは、鏡夜の声だった。 「どうして、逃げた」 まるで泣き出しそうにそう言うものだから、私は顔を上げて彼の顔を見つめた。 ここで情に流されてはいけない。 そんな思いが私の中に溢れる。 「だって、私はあなたのものなんかじゃないから」 途端に私は腕を掴まれて、ホテルに連れていかれる。 「ちょっと、」 すたすたと歩く後ろ姿に、私の声は届いていない。 「ねぇ、痛いってば! 離してよ!!」 エレベーターに連れ込まれたところで、逃げられないと判断したのか、やっと二の腕が解放される。 そういえば、食事会のときも二の腕を掴まれたんだっけ。 じんじんと痛む二の腕を擦りながら、そんな場違いなことを考えていた。 チンと音がして目の前の扉が開かれると、今度は手首をそっと掴まれる。 ……こんなときに優しく扱うなんて、本当に酷い男だ。 抵抗する力もなくなり、私はおとなしく鏡夜に連れられるがまま足を動かした。 鏡夜は部屋に入るとそのままベッドルームに向かった。 肩を押されて、私はベッドに仰向けにされる。 彼の唇が私の首筋を愛撫していく。 「お願い、鏡夜。……抱くのだけはやめて」
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