序章 始まり

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「あ!ミト!」 「…!…あ…アキ…!」  幼い子供たちが聞きなれない呼び名で互いを呼び始めたのは、何時頃の話だったろうか。別の扉からメイドに連れられて来たアルティカがその名を呼べば、テオドールが連れてきたミフェリオが瞬いた。二人の子供がこうして会える機会は、決して多くはなかった。二人が会う事を許されたのは、テオドールが傍に居る時だけだったのだ。それはテオドールが申し出た事であり、フェナルドがそれを取り入れたのだ。それが良いだろう、と彼も今回ばかりは頷いた。場合によってはフェナルドも居る事があったが、酷く多忙な日々を送っている彼は屋敷を空けている事の方が多い。そしてテオドールもまた、毎日のようにミフェリオをアルティカの許に連れてこれる程に暇な地位には居なかった。  テオドールの本来の仕事は主人であるフェナルドの護衛だ。そこに彼の子であるアルティカの護衛という名の世話役も加わっているに過ぎない。そもそも子供たちの世話をするのは他の従者たちの仕事であり、テオドールの仕事ではないのだ。彼には他にも多くの仕事があり、時には遠くへ足を運ぶ事も当然ある。しかし、こればかりはテオドール以外に任せられる者が居なかったのだ。故に、二人の子供がこうして会う頻度はむしろ少なかった。大人でさえそう感じる程だ、子供たちはそれ以上に会えない時間が長く感じていた事だろう。久しい再会に先に駆けだしたのはアルティカであり、対してミフェリオも駆け出そうとして…止める。何事かとテオドールがミフェリオを見下ろせば、茶色の瞳が何かを訴えるようにテオドールを見上げた。 「…自由に動いて良い、アルティカ様と一緒に遊んでおいで」 「………!」  ああ、とワンテンポ遅れて小さな背をそっと撫で押した。促してやれば、ミフェリオは僅かばかりに笑みを浮かべて、今度こそ駆け出した。酷く賢い子だ、とテオドールが気付いたのは直ぐの事だった。少し恐ろしいくらいに賢いミフェリオは、とても子供とは思えなかった。ほんの数ヵ月前までは言葉さえまともに知らなかったというのに、ミフェリオはそれを驚く速度で習得していった。だがその賢さにテオドールが納得したのも確かだ。ミフェリオが唯一知っていたのは、非常に高度な暗殺術だ。それもこの年でほぼ完成形に近いほどの、だ。それは大人でさえ習得するのには酷く時間が掛かるだろう。根本的に頭が良いのだ。いや、恐らく良すぎるのだ。ミフェリオは賢い故に暗殺術を叩き込まれた、というのが正しい。今のように自分を管理している者―――テオドールに対し、動く許可を求めたのが何よりの証だ。少年は、自ら動くという事をしない。それは暗殺奴隷として教え込まれた基本中の基本なのだろう。自分を管理する、いわば主人の言う事を絶対的に聞く。それが、根本に埋め込まれているのだ。 「(自発性を取り戻すには、どんなに短くても一年以上はかかるだろうな)」  これを哀れと言わず、何を哀れと言うのだ。そう思わずには、居られなかった。広い遊び部屋の中央でようやっと合流した二人の子供を見て、テオドールは眉を顰めた。その奥で一人のメイドが軽く頭を下げたのに対して、軽く手をあげる事で答えると彼女はそっと部屋から出ていく。 「(だが、自発性を取り戻すまでは逆に目を離しても問題はない…のかもしれないな)」  皮肉な話だ。むしろ自発性を取り戻した頃が一番リスクが高まるのかもしれない。それまでは他者…恐らく現段階ではテオドールかフェナルドが言わない限り、あの子供は暗殺術を用いる事は絶対的にないだろう。しかし自発性を取り戻した時、自らの意思でそれを用いる可能性がゼロとは言えない。どちらにせよ、目を離す事はないだろうが。 「(………なるほど、偽名と家名の頭文字を繋げた愛称か)」  思考する一方で、子供達の意図をようやっと読み切った。アルティカ・キルスカでアキ、そしてミフェリオ・トルスカでミト。二人には申し訳ないと思いながらも、口うるさく真名で呼び合うのは止めるよう注意を促し続けた結果だろう。子供らしい発想だ。これならばミフェリオにトルスカ家の名を貸した意味があったというものだ。気になる点はあるものの、総じて良い傾向であると言って良いだろう。見やれば二人の子供はさっそく遊び始めていた。愛称については主人の耳に入れれば少しは心労が減るだろうし、ミフェリオもまた色んな事を著しい速度で学びつつある。文字や言葉だけではない、感情や表情、そしてそれらの表現の仕方、コントロールの仕方。この屋敷に連れ帰って来た時とは、随分と変わって来た。実に人間らしく、いや、子供らしくなったと表現しよう。子供の成長は目まぐるしいものだとは言うが―――刹那。そんな呑気な事を考えていた思考をぶつ切りにして、テオドールは軽く床を蹴った。ぐら、と重力に従って吸い込まれた小さな体を、咄嗟に伸ばした腕で抱き止めた。 「アルティカ様!」 「…っ、あ、アキ…っ!」  遅れてミフェリオがその名を呼ぶ。子供なりに咄嗟に伸ばした両手が、アルティカの服を掴み握りしめた。腕の中で倒れ込んだアルティカを見下ろして、テオドールはまたかと眉を顰めると共に軽く奥歯を噛みしめた。 「………おい、誰か居るか!手を貸してくれ、急ぎアルティカ様を聖堂へ!」 「あ、アキ、あき…っ…!」  軽度の発作だ。しかし自然的に収まるのを待つという選択肢はない故に、テオドールは声を張った。先ほど出て行ったばかりのメイドが慌てて踵を返したのだろう、遠くから僅かな返答と足音が響き出す。その一方でいくら賢いと言えど、どうすれば良いのか分からず繰り返し名を呼ぶミフェリオを見やる。 「すまないミフェリオ、手を離せ」 「え……あ………ぅ…っ……」  びく、と震える指先が恐らく本能で離れた。やはりこの子供は、あまりにも周りの者の言う事に従順だ。酷い話だ。それを分かりながら自分もまた、この子供にそれを強制しているのだから。茶色の瞳が、泣き出しそうな程に歪んだ。 「失礼致しますテオドール様、なにか……アルティカ様っ!?」 「軽い発作だ、聖堂へお連れしろ。神官と医務官を急ぎ呼べ」 「は、はいっ!直ちに!」  アキ、と子供はその一言でアルティカの名を呼ぶ声さえ押し殺してしまった。酷い罪悪を感じながら、メイドにアルティカを託す。しっかりと少年を胸に抱いたメイドは急ぎ足で踵を返し、その姿を堪らずと言った様子でミフェリオが追おうと一歩を踏み出した。その辺りはまだ子供というべきか、それとも自発性が戻りつつあるというべきか―――考えながら、テオドールがそれを止めた。 「…すまない、ミフェリオ。…お前は、此処で私と共に待て」  酷い話で、皮肉な話だ。この子供に自発性が戻る事を願いながら、それを押し殺しているのが自分なのだから。 「ねえ、聞いた?今日、またアルティカ様が発作で聖堂に運ばれたそうよ」 「聞いたわ…お可哀想に、ここ半年で急にまた発作が起こる頻度が増えて…一体どうなされたのかしら、心配だわ」 「旦那様の御耳には届いているのかしら…ここ数年はずっと落ち着いていらしたのに、どうして…」  それでも尚テオドールがミフェリオを止めるには当然、理由があった。女は噂話が好きだな、と一人考える。お喋りは程々にしてほしいところだが、こればかりは手に負えない。火の無い所に煙は立たぬ、だ。 「…あの…私思うの、いつもテオドール様が見てくださってる子供…居るじゃない?」 「え?…ああ、アルティカ様と良く遊んでおられる…?」 「ええ。……その……アルティカ様、あの子と会う度に発作を起こして」 「! 止めなさい、そんな縁起でもない事!」  けど、と憂いを感じながらも口を閉ざした誰かの感覚は、正しい。そしてそれを止めろと言った誰かの感覚も、だ。誰もが表立って言わないだけで、その事に気付いている。テオドールを含め、屋敷に居る者ならば殆どが、だ。故にテオドールは、ミフェリオから余計に目を離せないし、アルティカから引き離さねばならない場面があるのだ。 「(俺がミフェリオを屋敷に連れ帰ったのは半年前、アルティカ様が頻繁に発作を起こすようになったのも半年前)」  子供だって少し考えれば分かる事だ、そこを疑わない大人は先ず居ないと言って良い。考えながら廊下を少し早歩きで進んでいく。疑惑だけで、確証はない。神官や医務官からミフェリオの名を聞く未来も恐らく、そう遠くはないだろう。しかし発作の原因だって分かっていないのだ、あの二人の子供に何かしらの因果関係があると断言する事は出来ない。 「(あんな子供に、何が出来ると言う?)」  ―――否。あの子供は危険、だ。自分は確認の為に見たはずだ、あの子供が知り得ている恐ろしい程の暗殺術を。思考が、絡む。ふ、と窓越しに見えた空は分厚い雲に覆われていた。まるで今のテオドールの頭の中を表したかのようだ。しかし思い返せばそう、あの子供を連れ帰って来た日はまさにこんな感じの天気だった。考えながら、たどり着いた一つの部屋の前で足を止めた。ドアノブに掌を翳すと、その指先に反応してドアノブに刻まれた陣が反応を示す。カチャン、と扉の鍵が解錠された。それからテオドールは軽く扉をノックし、暫しの沈黙を挟んでからその扉を開いた。部屋は、決して広くはないが狭くもない。ここ半年、その部屋は何一つ変わっていない。相変わらずベッドも机も使われた様子はなく、本棚に並んでいる本はまた埃が積もりつつあった。 「ミフェリオ」  その部屋の隅で寝ているのか起きているのかさえ定かではない少年が、いつもただ膝を抱えているだけの部屋だ。名を呼べば、やっと顔を上げてくれるようにはなった。けれど茶色の瞳は、今にもひび割れて壊れてしまいそうだった。そっとしゃがみ込んで視線を近づけるも、この子供は自ら喋る事をしない。何かを…指示を与えられるのを、待っているだけだ。 「…待たせてしまったな、すまない。アルティカ様はご無事だ、先ほど目を覚まされた」  この子供は、そう在るのだと教わって来たのだ。この国において、奴隷は買い主の所有物という扱いになる。法的な言い方をするのであれば、奴隷もまた一つの財産である。買い主以外の者が奴隷に手を出せば、それは立派な犯罪となる。私財窃盗に該当するのだ。人を奴隷として扱う事は犯罪にはならないのに、可笑しな話だ。同時に、所有権を持つ者は奴隷をしっかりと管理する義務が課せられる。その結果が、この子供だ。扱い方も買い主でそれぞれだ。ペットのように可愛がる者も居れば、この子供のように部屋の隅で保管される場合もある、という事だ。指示を与えられるまで、部屋の隅で物音一つ立てずに静かにしている。恐らく、それがこの子供の保管法だったのだ。一体何時からそう保管のされてきたのかは定かではないが、半年経ってもベッドを使わないのを見ると非常に深刻だ。使い方が分からない訳ではなく、そもそもベッドを使うと言う概念がないのだ。しかしこれでも、幾分かマシになった方だ。茶色の瞳が、瞬きで応えるようになった。小さな肩が、極僅かばかりに震える事で応えるようになった。小さな体は、あらゆる反応を示し始めている。 「…ぼくが、アキに、会うと。アキが、苦しむのは、どうして、ですか」  だがその全てを押し殺して、この賢い子供はテオドールにそう問いかけた。子供でも分かる事を、この賢い子が分からない訳がなかった。何時だったか、世話役に抜擢されたメイドが逆に精神を病ませてしまった時の事を、テオドールは今も覚えている。長年キルスカ家に仕え、現役を引退してからは掃除の大半を任されている老爺でさえ、とても見て居られない、と酷く悲しげな顔をしていた。 「ぼく、が。…アキに、なにか…悪いことを、している、のでしょうか」  皮肉な話だ。酷い話だ。ようやっと自発性を取り戻しつつある子供が、そう問うのだ。きゅ、と膝を抱えていた小さな両手が、裾を握りしめた。その身体は、瞳は、表情は確かな反応を示している。しかし、それでも尚まだ欠けているモノは多い。あまりにも多すぎる。哀れな程に、信じられない程に。 「ぼくは……―――………ぼくは、アキに、会ってはいけない、のですか?」  感情の名を、表情の名を、言葉の使い方を覚えたばかりの齢七歳の子供は、本当なら生まれた時から知っているはずの泣き方を、思い出せずにいた。
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