序章 始まり

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序章 始まり

 崩れゆく世界の中心に、一人の"聖女"が居た。自分の定めを受け入れるかのように、ただ静かにそこに佇んでいる。ガラガラと何処から聞こえるそれは、世界が崩れていく音だ。薄暗い世界に唯一差し込む光に、"聖女"は俯かせていた顔を上げた。それに合わせて美しく長い金髪が揺れ、整えられた前髪の奥で碧眼が優しく開かれる。まるで絵に描いたような容姿をしている"聖女"は、その名に相応しい。崩れゆく世界と自らの運命を知りながらも、"聖女"は長い睫毛を揺らし眩い光に目を細めた。そっと、碧眼が優しく瞬きをする。零れ落ちそうな程の美しい瞳に、深い悲しみと憂いが浮かび上がった。それは決して、自らの運命を嘆いたものではなかった。光に、"神"に祈り願うように"聖女"は軽く奥歯を噛みしめた。 「―――嗚呼、神よ。私は結局、最後まで彼女と解り合う事が出来なかった」  これが、私と彼女に定められた運命だったのでしょうか。光越しに神に問うも、答えは与えられない。ふる、と何かを振り払うように"聖女"は緩く頭を振るい、暫し思考するように瞳を伏せた。思い悩むように"聖女"はゆっくりと二呼吸程してから、胸の前で両手を軽く握り合わせた。 「神よ、彼女はとても孤独です。どうか、彼女をお救い下さい」  彼女の救いを、自分が祈り願うのは赦されない事だろう。だが、それでも"聖女"は願わずには居られなかった。更に深い祈りを捧げる為に、"聖女"はその場で跪く。両膝をつき深く身を縮め、清き心で嘘偽りのない願いを捧げる。 「私は、我が身がどうなろうと構いません。この祈りが罪だというのであれば、その罰を受ける覚悟は出来ております。ですが、彼女は…」  光が、"聖女"を僅かばかりに諫めた。その気配に"聖女"は息を呑みながら顔を上げれば、眩い光に碧眼が一瞬眩んだ。突き刺す様な光は、決して"聖女"を罰する光ではない。だが強く、強く何かを訴えるかのような光だ。碧眼がその声を聞き、酷く揺れる。ふる、と一度はそれを振り払うが―――ガラ、と崩れたそれに、"聖女"は強く両手を握りしめた。ぐ、と奥歯を噛みしめて、震える指先を堪えるように胸に抱き、身を縮める。だが、隠しても無駄だ。光は、神は"聖女"の本当の祈りと願いを見透かしている。神の面前でそれを隠そうなど、なんと愚かな事か。それでも尚、"聖女"は足掻くように更に身を縮めていく。胸に抱く本当の願いを隠すように、守るように。 「嗚呼、神よ、」  震える唇で、ついに小さく囁いた。どうか許しを。この胸に抱く願いを。たった一つの祈りを。 「今、私は"聖女"ではなく、一人の女として祈りを捧げる事、どうか…―――…どうか、お許し下さい!」  神に縋るかのように、"聖女"は…否、女は顔を上げた。見透かされているその想いを、曝け出すように。長い金髪が少しばかり大きく揺れ、碧眼に多量の涙が零れ落ちる。それに構わず、女は光に向かって叫ぶ。 「神よ、あの子を…っ…愛しい我が子を、どうかお守り下さいっ!あの子には、何の罪もございません!」  自分以外の誰にも、何の罪もない。そう女は叫ぶ。例え神が自分以外の者に罪があると言うのであっても。これから先、未来ある我が子には何一つの罪はないのだと、叫ぶ。"聖女"であるはずの彼女は、一人の母として世界よりも我が子の幸せを祈った。 「"聖女"として祈る事を止めた愚かな私はどうなっても構いませんっ、けれど、どうか…っ…どうか、あの子だけは…っ!」  光が、瞬き答えた。それに女は息を呑み、瞬きによって涙が散った。優しく温かい光が、女に語る。細い両肩から、ゆるゆると力が抜けて行く。その光の加護を受けるように、その身を光に委ねるように。やがて、女はそっと瞳を伏せてく。意識を光に吸い込まれていくかのように、静かに眠りに誘われていくように。最期の言葉は、声に成らなかった。代わりに彼女は、その全てを祈りに乗せた。そっと両手を握り合わせ、無垢な心で祈り願う。ふわり、とその祈りを汲み取るように光は彼女をそっと包み込み、その身は酷く静かに光に溶けて消えた。  ―――"聖女"、アウレア・リリアーヌ・クロトリア。彼女が世界からその名を忘れ去られたのは、"バルデナットの戦い"から僅か数年後の事であった。  ―――商業国家ルガラント。ラテマイユ大陸に存在する三ヵ国の中でも、その名の通り特に商業が盛んな国は一見とても豊かに見える。古くから対立している西の法力国家シュレリッツと、東の魔法国家フォルテラ。その二ヶ国の南に、この国は存在している。そう、この国は今現在でさえ小さな争いが絶えない二ヶ国に対して、資金援助を行っている。長きに渡る法と魔による戦いが終わらない理由の内の一つが、この国には在ると言える。だが、皮肉なことに戦いが起こる故にこの国は豊かなのだ。武器が売れ、防具が売れ、薬が売れ、食料が売れる。それによって物と金は円滑に循環し、国全体が潤う―――いいや、違う。確かに物と金は循環しているように見える。だが、そう見えるだけだ。実際は金を多く持つ者ばかりが潤い、金を持たない者は一方的に全てを搾り取られているだけだ。この国において、最も強いのは剣でも魔法でもなければ、法力でもない。そう、この国を支配するのは金の力だ。この国で買えないものはなく、売れないものもない。それは人の命でさえも、だ。金さえあれば、この国は人の命さえ買えるのだ。  国内における貧富の差は激しく、国全体の治安は最悪だ。富豪商人が暗殺される事など日常茶飯事だ。だが、それ以上に金を持たない者は人権さえ認められず、その殆どが奴隷になるのは毎日の事で、誰かに囁かれる話にさえならない。力無き者が、奴隷という商品として捕まる。人はそれを"奴隷狩り"と言う。それはまるで、狩人が鹿を狩るのと同じように行われている。そんな腐敗しきっている国に近年、変化が訪れている。そのきっかけは"バルデナットの戦い"の発端となったルガラントとフォルテラの争いだ。資金援助を行ってきたルガラントを、フォルテラが侵略しようとしたのだ。フォルテラに幽閉された"聖女"を、"聖騎士"が救った話は後の歴史に残るだろう。だが、元より厳しい貧富の差と国家からの金の力による圧制に加え、他国からの脅威についに民たちの不満と不安が頂点に達したのだ。  国家に対して反旗を翻したのは、決して貧しい者だけでなかった事は他の二ヶ国をも驚かせた。力ある富豪と貴族、そして商人達が先頭に立ったのだ。彼らは貧困に苦しむ人々や奴隷を助ける為に、この国が掲げた金の力を以って内乱を引き起こしたのだ。この国における戦いは、剣でも魔法でもなければ、法力でもない。そう、金だ。歴史家はこれを"無血戦争"と呼び―――しかし、実際はそんな訳がない。 「(何が"無血"、だ。所詮、この国の金など血と涙に塗れ、屍の上に築かれた物だ)」  既に取引されてしまったのだろう、多量の金が詰まっている袋を、黒い前髪越しに紫色の瞳で見下ろしながら男は一人考えた。袋から一枚の硬貨を取り出してみた。一見とても綺麗な金に見えるそれは、血塗れだ。そして誰かの涙に濡れている。何を考える訳でもなく、それを指先で弾いてみた。ピン、と響いた硬貨は嫌になるほどに軽い音がしたし、重みも全く感じなかった。 「(汚い金だ。あの方は、金に綺麗な金など無いと言うが、全くその通りだな)」  大事なのはその汚い金を何に使うかだと、彼はいつも言っている。それを思い返しながら硬貨を目の前に掲げた時だ。並外れた察知により、男は遠くから近づいてきた気配に気付く。硬貨を袋に仕舞い、立ち上がった。とん、とん、とん…と、遠くから聞こえてくるそれは跳躍している音だ。直後、軽い足音を立てて一人の身軽な男が姿を現した。 「テオドール殿、北東にて残りの二台を捕縛致しました。領収書から既に取引された者の足取りも掴めました」 「ご苦労。早急にそちらもひっ捕らえろ、買い取り主の許に辿り着いたら手が出せなくなる」 「はい。既に第三、第五、第七部隊を向かわせています」  なんとかなりそうか、と男の報告を聞いて内心で息を吐き出した。しかし油断は出来ないか、と両腕を組む。やはりこういった森林では護衛部隊よりも彼らの方が動きやすい。今回は少し報酬を弾むべきだろう、一度相談してみるか。…いや、彼の事だ。自分が言わずとも、そうするだろう。早急に一つの結論を出したところで、ふ、と男に視線を移す。 「………で、その子供はなんだ。生憎だが、キルスカ家は献上品に人間を扱う事は禁じている」 「そんな、とんでもない。存じておりますよ、我々がそんな非道な集団に見えると?」 「ああ、見える」 「………心外ですね………」  容赦なく言えば男は本当に軽くショックを受けたらしく、肩を落とした。その動きに合わせて、担がれていた子供が小さなうめき声を漏らした。頭部を強打して気絶させたのだろう、僅かな揺れに鈍い痛みが走ったようだ。一応と言った様子でそれを気遣いながら、男が少年を差し出した。 「俺はテオドール殿のご命令通り、"極めて危険そうな者は黙らせて連れてきた"だけですよ」 「………なに?」 「…闘技奴隷かとも思ったんですが、どうやら」  まだ十にも満たないだろう子供を受け取れば、信じられない程にその身は軽かった。恐らく、必要とする栄養素を全くとれていない。見るに堪えない程、哀れな子供だ。親に売られたのか、それとも。その思考を遮るように、男に促された箇所…まだまだ小さな手を見た。 「暗殺奴隷のようです。見ての通り、厳重に保管されておりましたが…万一があってはいけないと思いまして」 「………………世も末だな」 「ええ。全く、仰る通りで」  暗器を玩具代わりに育ってきたのだろう傷だらけの手を見て呟けば、違いない、と男はひょいと肩をすくめて見せた。彼の言う万一が起こらないようにか、小さい身体には重すぎるだろう手錠と足枷は、その子供の体重の半分を満たすだろう。これは間違いなく報酬を弾む他ないだろう、そう考えながら男は小さな子供を起こさぬよう、そっと抱え直した。―――商業国家ルガラント。この国は今、国家主義と反国家主義による奴隷の競り争いが激しくなりつつあった。
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