第一章 揺り籠

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 これで幾枚目か、額を記した紙を封筒の中に滑り込ませる。息をつく暇もなく、速足に次の牢へと向かう。女、長く綺麗な髪、自分より年上、傷つけられた様子のない肌、他よりはまだまともな布に身を包んでいる。 「(―――愛玩。この手は野郎が無駄に高くつける、となれば多少余裕を持って見積もるとして)」  紅く綺麗に塗られたままの爪がなによりの証だった。一目に飛び込んできた情報から、その種類を判別した。年齢によって大きく値段が変動する奴隷の一種だ、出費は抑えられるだけ抑えたいが、それが難しい。一呼吸ほど迷いに迷って、ペンを走らせては紙を封筒に滑り込ませた。あまり感じないだけで、時間制限もある。 「(出品数は全部で137。一つにそんなに長い時間はかけられない、このペースを保って最後まで行くのがベスト)」  純粋に買い物を楽しむのが目的ならもっと気楽に回れるのだろうが、例えそうだとしてもアルティカは此処に長くは居たくない。今にも息が詰まりそうな程に、酷く呼吸がし辛い。これで何人目か、次の"揺り籠"を見ては品定めをし、息苦しさとは裏腹に指先はペンを走らせる。正確にかつ素早く、一つ一つの品に価値をつけていく。同じ人間が、同じ人間に値段をつけていく。同じ心を持つはずのそれに、心を持つはずの自分が。 「(愛玩…違う、闘技か。拘束の鎖の質が違う、でも通常の闘技と比べると軽い鎖…あぁそうか、女…)」  老若男女を問わない、"揺り籠"がアルティカの青色の瞳に映っては消えて行く。流れゆく川のように、次々と、次々と。数を増すに比例して紙に走らせるペンが重くなっていく。酷く嫌な感覚だ。檻の奥に閉じ込められた人間に、数字をつけていく。何人目からか、何処かそれを作業のように行っている自分に気付いた。何人目からか、自分を見る誰かの瞳が嫌に脳裏に張り付いては重なっていく。 「(顔に傷がない、けど他は傷だらけ、それだけ価値は下がる、痣も酷い)」  何を望むわけでもない、絶望でしかない瞳がアルティカの青い瞳にちらつく。生気のない、混沌とした瞳。それに時折混じるのは憎悪だ。憎しみ、悲しみ、悔しさ。それを圧倒的に上回る一切の希望のない、虚ろな瞳。不意に、一人の同い年くらいの少年と目が合った。牢越しに見えたその瞳は、何色か判別出来なかった。奥に居てその顔がよく見えなかったのだ。 「…―――………」  なんの特徴もない、何処にでも居そうな少年、だ。ぼんやりとした瞳が、真っ直ぐにアルティカを見上げていた。その瞳に宿るモノは、なんだろうか。憎しみ、妬み、悲しみ―――いいや違う、その瞳に宿るのは羨望だ。細い手足につけられた鎖は、酷く重そうだ。例えばその鎖がなければ、きっと少年は幸せな未来や夢、希望を語るだろう年頃だ。幾分か成長し、親から自立する精神が芽生え、これからは自分の力で世界を切り開き生きていくと、そんな希望に満ちた未来を。その未来を、この少年は売る事にしたのだ。少年が誰かの為に自分の未来を売ったのか、それとも誰かが自分の未来の為に少年の未来を売ったのだ。どちらかは、分からない。何も語る事のない瞳は、深くを見ようとしても何も見えない。なにも、宿っていないからだ。ただそこに在るのは、自由な身を持つ己への羨望だけだ。ふ、と少年は羨望に満ちた瞳を伏せた。そうっと眠るように、静かに。―――ぷつり、と少年の中で何かが途切れたのを、感じた。膝を抱えたまま、少年は眠った。静かに"揺り籠"に誘われるように。ジャラ、と響いたその音に檻の傍に居た誰かが気付く。少年の様子には気付いていたのだろう、誰かは細い棒を手にとっては牢の隙間から少年の肩を叩いた。  反応がない。確認するように強めにその肩を押せば、ごとん、と少し大きな音を立てて頭部がやせ細った身体と共に転がった。くしゃ、と紙に添えていた左手がそれに皺を作った。やれやれと言った様子で、誰かが肩をすくめながら棒を手元に戻した。フイ、とアルティカの後ろを誰かが興味なさそうに通り過ぎて行った。誰一人、名も知らない少年の事など、想いもせず。まるで、何事もなかったように。ピキ、と右手に握りしめていたペンが軋んだ。バサ、と棒を手放した誰かがその折に布を被せた。そしてまるで何事もなかったかのように、目の前に置かれていた机に歩み寄ると封筒の中身を確認する訳でもなく抜き取った。ただただ、そこに居たアルティカに何かを伝えるように軽く頭を下げては、次を促すように指先を伸ばした。何かを、叫ぶ訳でもなく。アルティカは歪んだ白紙の紙に、どれだけの額を書いたか、分からなかった。それを目の前に居た封筒を持つ誰かに押し付けてから、次の檻へと歩き出した。  "………何が"揺り籠"だ。この世の全てのものが、金で買えて堪るかよ"  全く持って理解出来ないと、少し前に言っていた自分を思い出した。星の数ほど、人間は居る。その数だけ人にはそれぞれの趣味や嗜好があって―――自分は今、全く理解が出来ないと称したはずのそれと、全く同じ事をしたのだ。違う、決して人体収集家のような嗜好を持ち合わせたわけではない。そうではなく、名も無き誰かの少年を、せめてちゃんとした墓に。ぐ、と込み上げてきた嘔吐感を無理矢理、飲み込んだ。口元に手を当て、それを悟られないように声を押し殺した。だから嫌だったのだ。だからずっと、避けてきたのだ。それでもいつかは来なくてはならない場所だと、分かっていた。だからこそ、覚悟はしてきた。してきた、つもりだった。真っ白な紙に数字と名を記していく度に、自分が何かに染まっていくのを感じる。自分が嫌悪し続けてきた、この世で最も嫌いなそれに、染まっていくのが分かる。人の命が、人の心が、金で買えるわけがないのに。そう言いながら、そう思いながら、自分は今まさに人の命を、人の心を買っている。彼らの意志に関係なく、金というこの世で最も残酷な武器で。 「(なんだ、此処)」  普通じゃない、と今更になって気付いた。普通じゃない、異常だ。あまりにも異常だ。目の前でこんなに多くの人間が鎖に繋がれて、今にも死にそうな奴が居て、今まさに人が一人死んだと言うのに。どうして誰一人として、声を上げないのだ。耳に突き刺さるのは、誰一人何も言わない異常な沈黙だ。普通なら、普通の人間なら…否。 「(なんなんだよ、此処。普通の精神で居たら、持たない、持つわけがない。此処は、普通の精神で居てはいけない場所だ)」  気が、狂いそうだ。普通がない、狂った世界だ。まるで異世界のようなそこに、眩暈を感じた。長居しては危険だ、あまりにも危険だ。じわじわと精神を蝕んでくるそれは、狂気だ。一刻も早く、出るべきだ。 「(在ってはならない世界だ、狂ってやがる、こんな、)」  駄目だ、と自分の限界を感じた。まだ此処は、自分が来るべき場所ではなかった。幾人目か分からなくなったそこから、アルティカは品定めをするのを諦めた。今回ばかりは、父に頭を下げるしかない。願わくば未熟な自分を厳しく叱ってくれたら、救われるかもしれない。彼なら、父なら、きっとこの戦場でも立派に戦えたのだろう。 「(情けない、俺は、これだけ居る中から、たった一人でも救えないのか)」  それが酷く悔しくて、情けなくて、悲しくて。これが、この国における戦い方だと言うのか。目の前の檻を破壊する魔法でもなく、鎖を断ち切る剣でもなく、傷を癒す法力でもなく。ただただ、閉じ込められている誰かに対して淡々と、同じ人間であるはずの自分がその命に価値をつけて、値段をつけて。―――ふ、と手にした封筒の重みに気付いたところで思考が凍った。これまで手にしてきたそれとは、桁違いだ。一体どれだけの人数が入札しているのだろう、見下ろしたそれは中で紙が重なっているらしく少々膨らんでいる。何かの間違いではないかと顔を上げた時、此処まで見てきた中でも比べ物にならない程、混沌とした瞳がそこに在った。細すぎる手足に対して、あまりにも厳重な手錠と足枷、挙句には首輪までされていた。檻も特殊なものらしく、明らかに厳重度が違う。中心で座り込んでいたのは一人の女の子だ。年にして七、八歳前後だろうか。長い髪は伸び放題で、酷く荒れている。心臓を、掴まれたような気がした。 「(………は?…なに、なんでコイツだけ、こんな)」  愛玩にしては厳重すぎる、闘技奴隷―――否、こんなに幼い子供が、闘技?いくらなんでも、厳重すぎる。ただの闘技奴隷に対する入札数じゃない、何か別の理由があるのだろう。その理由を探ろうと目を細めた時だ、ふ、と牢の傍に置かれていたそれに気付く。決して明るいとは言えない部屋の明かりを鈍く反射した。この"揺り籠"の付属品か。 「(…暗器?闘技に使用武器なんてつけないだろ、なんだってこんな子供が暗器なんて)」  基本的に、闘技奴隷はその場で用意された武器を扱うか、あるいは完全な素手でしか戦う事を許されない。護衛として闘技奴隷を傍に置く場合は、買い主が奴隷に持ち主の証として武器を与えるのが一般的だ。それを彼らは主人から与えられた契約の証とするもので、最初からその者に武器を与えるなどしない。 「(…―――………暗殺奴隷?)」  ふっ、とその言葉は突然に湧き出してきたように脳裏に浮かんできた。まるで今まで忘れていたかのような言葉を、思い出したような。そう、確かその存在は物心がつく前に暗殺術を教え込み、文字通り暗殺の為に用いる奴隷だ。しかしその存在は"揺り籠"の中でも酷く貴重だ。大抵の場合、暗殺術を教え込まれる段階で心身が壊れてしまうのだ。だが暗殺奴隷は、幼い子供からしか作れない。物心がついてからでは、感情が育ちすぎていて作れないからだ。だからと言って早くに作りすぎると、未熟すぎる体はついていけず、心も壊れてしまう。だが一度完成してしまえば、それは酷く貴重で、とても高値で。 「―――ッ、」  ズキ、と酷い痛みが頭に走った。突然の痛みに顔を顰め、咄嗟に指先で額に触れた途端に酷く痛み始めたそれに奥歯を噛みしめる。精神的に参ってきたのが頭痛になって表れたのだろうか。急激に痛み出したそれは、信じられない程の痛みを伴って意識を蝕む。声を押し殺しながら、檻の中に居る少女を見やる。ずき、とまるでその姿を見るなと言わんばかりに痛みが更に突き刺さってくる。 「(ぃ…ッてぇ、なんだ、これ…!)」  冗談じゃない、とあまりの痛みに両目をきつく閉ざす。視界を遮ったからか、ほんの気持ち程度だが頭痛が収まった気がした。ぐ、と指先がペンを握りしめている事を確認する。紙、も手元にあるはず。封筒、の重みも分かる。早いところ全部見て回って入札して、早く出て行こう。余計な事は考えずに、早く。 「(………あれ、暗殺奴隷、って、いくらすんだ………?)」  突き刺す様な痛みに、思考を邪魔される。ズキズキ、ずきずき。次第に増していくそれは、いつか己の頭を割るのではないだろうか。―――考えるな、と強い頭痛が思考を強制するように、響き渡る。あれ、でも確か、暗殺奴隷は。 「(でて、こない、なんで、あれ、相場…いくら…―――…ッて、え、駄目だ、何だこれ…っ!?)」  耐え切れない、と無意識に身体が判断したらしい。どれだけの額を書いたか分からない紙を封筒に押し込めて、踵を返した。少し急ぎ足でその場を離れてから、一人壁に身を預ける。深く息を吐き出して、ゆっくりと吸い込む。それを三回ほど繰り返すも、頭痛は収まりそうにない。自分で思っている以上に精神的に参っているのか、それとも弱いのか。はて、確かに参っているのは認めるけれど、此処まで過剰に体に影響が出る程にまで弱かった、だろうか。鋭い痛みが続くそれに、アルティカは辛うじて目を開く。大方の商品は見たはずだけれど、多分まだあと少し残っている。時間、もそう多くはない。急がなくては、と持ち上げた持ち上げた身体に願う。あと少し、あと少しだけだ。 「(頼む、耐えてくれ、今この場を逃したら、二度と助けられない奴が居るかもしれないんだ、頼む)」  ぐしゃ、と頭痛を振り払うように前髪を掻き乱したアルティカは、そう自分に言い聞かせながらまた歩き出した。  どれだけの時が流れただろうか。チリン、とその場まで辛うじて響いて来たのは極微かなベルの音だ。その時ばかりはウィルオンも咄嗟に顔を上げ、ミフェリオと顔を見合わせた。周囲に居た者達―――彼らも従者か何かだろう、各々の反応を見せた。間違いない、競売が終了した合図だ。全員が退出してから入札額の開示が始まり、落札者にのみ連絡が行くシステムだ。出品数の事を考えると今夜はこの街に泊まる事になるだろう、此処からはミフェリオとウィルオンの仕事だ。周囲の者を刺激しない程度に警戒しつつ、ぽつぽつと中に居た人々が出てくる出入り口に目を凝らす。一人、二人、三人…少しずつ彼らは合流を果たしては言葉を交わすことなく早々に立ち去っていく。そもそも"揺り籠"自体が違法とされるはずだ、見つかって面倒ごとになるのは皆避けたいのだろう。黒い瞳を細めたウィルオンが、いち早くその存在を見つけた。僅かに息を呑みながらウィルオンが歩き出す。それに続けてミフェリオが歩き出せば、丁度アルティカが出入り口から出てきたタイミングぴったりに合流を果たす。名を呼ぼうとして、止める。一先ずこの場を離れ、そしてつけてくる者が居ない事を確認してからだ。その途中で、二人は思わず呼吸が止まった。月白色の前髪の下に見えたアルティカの顔色が、あまりにも悪かったからだ。青色の瞳は恐らく、焦点が合っていない。極僅かに吐き出された息は、まさか息切れを起こしているのか。堪らずに声量を抑えて名を呼ぼうとした二人を、アルティカが持ち上げた指先が止めた。ぐら、と揺れた身体をフードの下からミフェリオが慌てて支えた時、茶色の瞳が驚きから瞬き見開かれる。 「(…ッ、熱…!?なんでっ)」  確かに彼は冷え症などではないけれど、その体温は通常を遥かに超えているだろう。思わず顔を上げるも、青色の瞳は決してミフェリオを見る事もなく、ウィルオンを見る事もなかった。ただ真っ直ぐ前を見つめており―――恐らく、それが今のアルティカの精一杯だ。ぐっと奥歯を噛みしめた彼が、歩き出す。ウィルオンが一歩先を、ミフェリオが一歩後を補佐しながら歩き出す。そこからの道のりと時間ほど、長く感じたものはなかった。酷く急く気持ちはあるものの、アルティカの状態からして速度を上げられず酷くもどかしい思いをしながら、十五分ほどか。街中へと戻り、立ち並ぶ露店を抜け、今回ばかりはウィルオンも周囲に僅かばかりの殺気を散らすほどに辺りを警戒して、警戒して。 「ッ、アルティカ様!!」  ようやっと先にウィルオンがとっておいた宿の一室に到達すると同時に、彼らはアルティカの名を呼んだ。その声を合図と判断したのか、此処まで意地でも自分の足で歩いてきたアルティカの足が、ついに崩れた。慌てて二人が両手で彼を支えるも、ひゅ、と聞こえた呼気に各々の瞳は敏感に反応した。 「―――っ…は……ッ…ぅ……!」 「っ、発作!?」 「アルティカ様、お気を確かに、アルティカ様っ!!」  一体何年ぶりか、久しいそれに二人が驚愕を隠せない一方で、アルティカは酷く痛むのだろう胸元を強く押さえた。不味い、とウィルオンが咄嗟にアルティカの胸元に両手を構え、ミフェリオがその意識を呼び寄せるように繰り返し名を強く呼ぶ。 「ミフェリオ、そのままお支えしろ!」 「アルティカ様っ、アルティカ様!!」  決して得意とは言えないが止むを得ない、とウィルオンは咄嗟に目を伏せ、精神を統一させる。静かにゆっくりと、けれど確実に、可能な限り早く。―――ス、とウィルオンの構えた指先を中心に、聖なる力が宿る。空気が徐々に澄み渡って行き、やがてそれは一粒の光となって構えた指先に灯り、宿る。 「"聖なる光(ホーリーライト)"!」  ポウ、と指先から純白の光が溢れ零れ、それは吸い込まれるようにアルティカの中へ溶け込んでいく。冷たいくらいのそれはじわりと体内へと広がると、途端に痛みと息苦しさが薄れていく。眩い光に青色の瞳が微かに開かれると、その光を頼りにアルティカは意識を奥深くに沈め込んだ。深く、深く、自らの無意識の領域に沈んでいくかのようにゆっくり、ゆっくりと。胸元を押さえいた指先を解し、心を静めていくのに合わせてそっと両目を伏せる。僅かな沈黙を挟んだ後、ウィルオンが放ったそれとは比べ物にならない程の聖なる力が、アルティカの指先から溢れた。言葉無き聖なる力は、ウィルオンが放った魔法とは似て非なるもの―――対極となる法術、即ち祈りの力によるものだ。呪文や言霊を必要とする魔法と違い、法術は祈りそのものがその役割を果たすのだ。ふわ、と温かい聖なる力が辺りを満たす。発作と息切れがぴたりと止まった事を実感したところで、アルティカは深く息を吐き出した。 「…っ…アルティカ様、ご無事ですかっ!?」 「…っあー…悪ィ、だい…じょぶ…も、おさ、ま…った………」 「アルティカ様!」  が、次にアルティカの青色の瞳を襲ったのは酷く強い眠気だ。それに幾度か抗おうとしたアルティカだが、一気に競売での反動が来たか。青色の瞳が閉ざされるとそのままミフェリオに身を預ける形となり、慌ててウィルオンもまたアルティカを支える為に手を伸ばした。最後に二人は声を揃えてアルティカの名を呼ぶも、すぅ、と聞こえてきたのは静かな呼吸だ。ば、と二人同時にその顔を覗き込んでは顔色と呼吸を確認し、眠っているだけだと言う事を二回ほど互いに確認し合った。違いない、と判断したところでミフェリオとウィルオンは互いに目配せをして部屋のベッドにアルティカを横たわらせる。最後の最後にもう一度二人で確認して掛け布をしたところで、二人は盛大に安堵の息を吐き出した。 「ッ、はぁぁぁ~…!…あーマジ、冗談抜きでビビった…!」 「…こんなに急、に…発作を起こすなんて…っ!」  一気に脱力した二人はゆるゆるとその場に座り込んでは、思わずと言った様子で各々の言葉を口にした。確かに、決して辛くなかったという訳ではないだろう。だがそれにしても発作を起こすほどの事だったのだろうか。会場の中で何かあったと考えるのが妥当だろうが、そればかりは本人から聞かないと分かる訳がない。 「…こりゃ流石に、旦那様に知らせた方が良いな…。ちょっと行ってくるわ」 「ああ…頼んだ、ウィル」  休んでられる状態じゃない、とウィルオンが改めて足腰に力を込めて立ち上がり、ミフェリオはそれを聞きながら頷く。そして自分の荷物袋を漁っては聖水を取り出す。思えばずっと昔から聖水を持ち歩くように言われていたが、実際に使うのは初めてだ。聖水を取り出したミフェリオを見て、流石、とウィルオンが安堵したように力なく微笑を浮かべた。直ぐに戻る事を約束したウィルオンが姿を消したのと、ミフェリオが聖水の蓋を開けたのはその直後の事だ。やはり速度だけで言えば、自分はウィルオンには到底勝てそうにない。伝達はトルスカ家一の俊足に任せるのが良いだろう。故にミフェリオはそっと開栓した聖水を眠るアルティカの傍に寄せ、バランスを確認してから手を離す。すぅ、と驚く速度で聖水は空気に溶け始め―――その頬を撫でると、熱はまだ引きそうにない事に気付いたミフェリオは慌てて冷水とタオルを求めて立ち上がった。  ふ、と直感に近いそれを感じた瞬間、彼は強く馬の手綱を手繰り寄せていた。突然の制止に、馬が小さく悲鳴を上げる。幾度かその場で激しく跳ねてから、馬は何事かと言わんばかりに首を振るった。その声を聞いて、直ぐ隣を走っていた馬もまた少し遅れて足を止めた。 「フェナルド様?如何なされましたか?」  突然の停止に驚いたのは馬だけではない、故にテオドールは主人であるフェナルドの名を呼び、問う。それに対してフェナルドは答える事無く、赤い瞳を瞬かせると一方向―――西北を見た。遠く、遠く、遥か遠くを。僅かに首を伸ばしながら目を細めれば、その動きに合わせて銀髪が揺れる。その横顔は、酷く真剣でありながら焦りを帯びていた。 「―――………ナオヤ…………?」  再度名を呼ぼうと口を開いたテオドールを遮ってフェナルドはたった一人の息子の名を呟くも、その声はテオドールの耳にさえ届かなかった。
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