第一章 揺り籠

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 バサ、と一羽の鳥を少し強めに促せば大きな翼を広げてウィルオンの腕から飛び立った。彼の速度なら遅くても半日と言ったところか。ウィルオンの頭上を二周ほどしてから彼は風を切って大空を駆け抜けていった。ふぅ、と一人息を吐き出す。街は、少しずつ夕闇に包まれつつあった。少しずつ沈んでゆく夕日を横目に、吹き抜けてきた風に目を細めた。とん、と軽い足音を立てて屋根を伝ってヘブリッジ全体を見下ろしてみた。何かを見下ろすと言うのは、実に気分がいい。人間ならば誰もが潜めている心理だろう、血生臭い泥塗れの街は酷く薄汚れて見えた。まるで排水管で出来た街だ。主人にはこんな街に必要以上に長居してほしくないのだが、競売結果と商品の引き取りが終わるまでは辛抱しなければならない。 「…ははっ、何処も彼処も臭う街だな。ドブネズミが多すぎて目星のつけようがない」  見下ろした街があまりにも滑稽で、つい笑ってしまった。黒い瞳が街を見下ろし、今はそれを諦めることにした。言葉通り、目星のつけようがないのだ。いや最初から目星はついているのだが、そこから更に先の手を読んでこそ護衛だ。ぐ、と両足に力を込めた瞬間ウィルオンもまた風を切り、一つの宿の一室に窓から直接そこに跳び込んだ。 「―――っとと、俺だよ俺!ウィルオンだって、ミフェリオ!」 「…なんだ、ウィルか…。外では普通に戻ってこいよ、心臓に悪い…」  それと同時に首元に飛んできた長剣に流石に驚き両手を挙げるも、今回ばかりはウィルオンが悪いだろう。悪い、と後ろ髪を掻けばミフェリオは驚かせるなと息を吐き出しながら抜いた剣を鞘に納める。一応分かるように気配は消さずに跳んできたのだけれど、と言えば自分の速度を改めて自覚してから言え、と手厳しい返事が返って来た。しかし護衛の自分の姿をいつ誰に何処から見られてるか分かったものじゃない、主人を護る立場である以上、自分の足跡を追われては話にならない。故に速度を落とすわけにはいかないだろうと言えば、違いないが、とミフェリオは些か納得いかないと言った様子で口元を尖らせた。 「アルティカ様のご容体は?」 「今は安定してる。熱も下がって来た」 「そか。軽い発作だったみたいで良かったー…」  ほう、とその場でしゃがみ込みながら安堵の息を吐き出す。そんなウィルオンにミフェリオは薄く笑い、水差しからコップ一杯の水を注いでやる。お疲れ、と声をかけながらそれを手渡せば、ウィルオンは礼を言いながらそれを口にする。もご、と三秒ほど口内で水を遊ばせてから飲み込む。 「遅くても半日で連絡は行くはず、返事は…あのテオさんだし、どんなに遅くても明日の朝には来ると思う」 「明日までの辛抱、か。………どう?」 「アウト。毒じゃねーけど…ねーけど、却下。相変わらず泥水みたいな味だな、水がこれじゃ病人が出て当たり前だわ…」 「だよな…了解。んじゃ、何時もの通り俺が作るわ」  毒と称するには全く至らないものだが、塵も積もればそれは毒になる可能性がゼロではない。故にコップを突き返しながら言えば、ミフェリオがそのコップを軽く指先で弾いた。コポ、と魔法で編み出された透明の水が再度グラスを満たし、口直しにとウィルオンはそれを飲み込む。 「…パーフェクト。流石ミフェリオ、お前本当に魔法上手いなぁ」 「…光魔法を使えるウィルの方が、俺は羨ましいよ」 「光と闇以外の四属性パーフェクトのエリートがなーに言ってんだ。そう言うの、欲張りって言うんだぜ」  美味い、とウィルオンは思わずその水を一気飲みする。対するミフェリオが浮かない顔をするのだから、つい苦笑が浮かんだ。こちとら魔法も法術も相性が悪いのか、それとも根本的な才がないのか、素質がないのか、殆ど使い物にならない。強いて使えるとすれば、先ほどアルティカに施した光魔法…基本中の基本である軽い治癒魔法くらいだ。 「…けど。さっきみたいな時は光魔法を使えないと、アルティカ様を助けられない」  その分ウィルオンは他でカバーしているから良いのだと口では言うものの、やはりそれを習得したい気持ちは昔から溢れて止まない。しかしミフェリオもミフェリオで、似たような気持ちを抱いているのだろう。他の魔法は習得出来たと言うのに、一番望む光魔法をミフェリオは習得出来ずにいる。それはウィルオンと同じで光魔法との相性か、素質か、才か―――あまりにも沈んだ顔をするものだから、ウィルオンは思わず言葉を詰まらせた。 「…光と闇は扱いが難しい。テオさんからそう習っただろ、この二属性だけはどうしても素質によるものだって」  それは才でも努力でも超えられない、本当に持って生まれた素質でしか超えられない壁だ。人間、どうしようも出来ない事など数えきれないほどある。そのうちの一つであるにすぎない。どんなに思い詰めても、例え天地がひっくり返っても至れない領域だ。どうしようもない、と認めるしかないのだ。言いながら立ち上がれば、酷い顔をしているミフェリオの頭部にコップを乗せる。ご馳走さん、との言葉にミフェリオは空になったコップを受け取るも、聞こえてきた声は情けない生返事だ。そ、と傍で眠っていたアルティカの顔を覗き込めば、ミフェリオの言う通り安定しているようだ。傍に置いてあった聖水が、残り僅かまで減っていた。 「ミフェリオ」 「ん」  肩越しに振り返りながら見やった少年は、誰かが言うほど気味悪い少年だとは、どうしても思えなかった。確かに、感情は未だに薄い、と言えるだろう。だが本当に感情が薄い人間が、こんなにも情けない顔をするものか。特定の人間に対してしか、まだ感情の表現の仕方が分かっていない―――いや、自然と感情が出てこない、ただそれだけの話だ。 「…今日は俺が外行く、お前はアルティカ様のお傍に居ろ」 「え…でも」 「その代わり、あと一時間で切り替えろ。此処からは俺等の仕事だ、抜かるなよ」  一時間、存分に思い悩んで悶々とするといい。そうしたらキッパリ思考を切り替える事を条件に、いつもはコインで決めるそれを免除した。茶色の瞳が二回ほど驚いたように瞬いてから、くしゃ、と何処か少し寂しそうな、切なそうな微笑を浮かべた。 「………ありがと、ウィル」 「どーいたしまして」  その顔を見たウィルオンはやっぱり、どうしてもミフェリオが誰かに噂されるほど感情が薄い、とは思えなかった。  "―――ぼくナオヤ!ナオヤ・アルティカ・キルスカ!きみのお名前は、なんて言うの?"  ふ、と随分と昔の記憶が浮かんでは消える。酷くぼやけた記憶と夢の世界で、色のない瞳が見えた。その瞳を、不思議と怖いと思った事なんて一度もなかった。その問いに、ぴく、と長い睫毛が動いた。ゆるゆると持ち上げられた瞳は、吸い込まれそうな程に混沌としていた。純粋に綺麗だ、と思ったのは当時の感性が可笑しかったのだろうか。…いや、違う。本当に心の底からそう思ったのだろう。光を受け付けない、酷く虚ろな瞳はとても綺麗に見えた。ザ、と世界にノイズが走る。その瞳に重なったのは、同じ混沌でありながら酷く重たい混沌の瞳だ。檻の中でただ茫然と佇む瞳は、色が見えなかった。決して、怖いとは思わなかった。やはりその瞳は、不思議と綺麗だと―――そう思う自分に、恐怖を覚えた。ぞ、と空気が冷えた。何故だろう、その混沌の瞳は本来であれば恐れるべきものであり、怖いと称される瞳のはずだ。当たり前だ、幼い子供が、あんな瞳をするなど。普通ではない、異常な事だ。それだけの事がこの子供達には起こって、それは想像する事さえ怖いほど、残忍な。その結果生まれたその瞳を綺麗だと思った自分こそが、異常者、なのではと。ふ、と目の前に居た子供が、混沌の瞳で瞬いた。吸い込まれるようにその瞳を見た時だ、頑なに閉ざされていた口元が開かれ―――刹那、記憶と夢の世界から目を覚ます。すぅ、と吸い込んだ空気はとても温かく心地よかった。二回ほど瞬きをしてから、そっと視線だけで横を見る。空になった聖水の瓶が、窓から降り注ぐ月光を僅かばかりに反射していた。その光が、あまりにも綺麗だったからだろうか。 「…アルティカ様、お目覚めになりましたか?」 「………ん…」  見ていたはずの夢は、まるで霧のような白い何かに覆われ包まれ、攫われていった。入れ替わるように聞こえた声に、生返事をしながら体の感覚を確認してから首を捻った。暗闇の中で、茶色の瞳が心配そうに自分を見ていた。ぼんやりとする意識で、必死にその名を探して、探して…探して。 「………ユウマ」  掴んだそれを手繰り寄せるように、その名を呼んだ。少し驚いたように、茶色の瞳が瞬き見開かれた。 「…ユウマ、」 「えっ…あ、は、はいっ」  随分と久しくその名を呼ばれたからか、ミフェリオ―――ユウマは変に緊張してしまい、若干声が裏返った。まるで心臓を掴まれたかのような感覚だが、決して痛くはない。むしろその声はユウマの中に心地良い音色を立てて広がっては消えて行く。 「………何で敬語なんだよ」 「えっ」  少し寝ぼけている、のだろうか。何故と言われても、今は外だし、それにいつの間にか敬語の方が定着しつつある。幼い頃、敬語を使え、敬称をつけて呼べと言われた時は酷く困惑したし、直すのに酷く苦労したと言うのに不思議な話だ。 「す、すみま…ご、ごめん、つい」  咄嗟に謝罪を述べようとしたところで、酷く嫌そうに顔を顰められて慌てて言い直した。行き場のない両手を挙げて恐る恐る顔色を窺えば、ふ、と満足したらしい彼は薄く笑った。そして一度深く息を吸い込んで、吐き出す。くしゃりと彼は前髪を掻き上げ、額を押さえてぼんやりと天井を見た。 「………あれ、なんで俺、寝て…たんだっけ?」 「…覚えてないのか?」 「ん~………」  記憶が入り交じっているのか、何故眠っていたのかを思い出せないらしい。 「…お前、発作起こしたんだよ。ウィルが光魔法で補佐してくれて、それでお前が自分で法術を…」 「発作?マジで?………全然覚えてねえわ、発作なんて何時ぶりだ…?」 「少なくとも五年…下手したら十年ぶり、くらいじゃないか?」  本当に覚えていないのかと問えば、彼はくしゃくしゃと前髪を掻いて記憶をひっくり返すも、本当に覚えていないらしい。随分と久しいそれに驚いたのはユウマ達も同じであり、それを察した彼は悪い、と肩を窄めた。ウィルは、と問われたユウマは視線で扉を見ればそれだけで十分に伝わったらしい。今日はウィルが外で見張り、ユウマが中で護衛にあたっていると言う意味だ。交代制で休めば良いのに、と言いかけた言葉を飲み込む。屋敷か、あるいはもっと信頼のおける地であればそうしただろう。だがこの街は元より治安は最悪だし、ようやっと思い出した競売の事もある。こういう街は、警戒しすぎるくらいが丁度良い。今此処で言ったとしても、彼らは二人で寝ずの番をするだろう。複雑な心境から逃げるように、一度ユウマから視線を外した。 「………ああ、そうか…俺、"揺り籠"…」 「…会場で、何かあったのか?」 「いや、まぁ…なんつーか…。…結構しんどかったのは確か、だったんだけど」  特に誰かに何かをされた訳ではない、と先に釘を刺すものの、ユウマは変わらず心配そうに此方を見ている。ゆるゆると少しずつ思い出されていくそれは、発作を起こしたという前までの記憶だ。辿って行けば、会場から出た辺りまでは覚えている、ような。 「結果はっ?まだ出てな……い、か…」 「…ああ、朝には出ると思う。…あと、お前が倒れた事はウィルが旦那様とテオさんに知らせてくれた」  窓の外に広がる夜空を見ての通り、時刻は深夜だ。その返事もまた、彼曰く朝にはくるだろう、と。発作を起こしたとなれば流石に父の耳に入れざるを得ないだろう、変わらず優秀な護衛だ、なんてことを考えた。聞いた話では幼い頃はよく発作を起こしていたらしいが、やっぱりその辺りの記憶は殆ど覚えていない。ふぅ、と息を吐き出して掌で顔面を覆った。情けない話だ、とその顔を晒すのが恥ずかしくなってきたのだ。それに対してユウマは大丈夫か、と改めて問いかけてくるのだから微苦笑を浮かべて肩をすくめる事しか出来なかった。何か食べるかと問われ、首を横に振るった。眠っていたからか、食欲がない。軽い音を立てて、ユウマが傍に置いてあった聖水の瓶を手に取った。 「アキ、少しだけでも良いから聖水を飲んで?」 「…ん………」  発作を起こしたと言う事は事実だ、と言いながらユウマは荷物袋を探ると二本の聖水を取り出した。うち一本を開栓すると同じように枕元に置き、もう一本を差し出す。少し迷ってから、ゆるゆると身を起こした。今回ばかりは駄々をこねる訳にはいかないだろう、大人しく聖水を受け取って開栓すると一口それを飲み込んだ。心地良い冷たさが、喉を通り越して体内にじわりと広がっていくのを感じた。空気に溶けやすい為、一度蓋をする。軽い音を立てて、清められた水の入った瓶を見下ろした。一般的に、聖水は安価で買える。勿論、品質にもよるが。法力国家であるシュレリッツでも特別な神殿や神官や聖職者の法力によって清められた水は、非常に高価になる。しかし聖水なら法力を扱える者なら比較的簡単に作れるし、ルガラントにも聖職者は居る。時と場合によって、聖水は薬よりも多大な効果を表す時がある。それもまた、体質や品質に左右されるが入手しやすいと言えば嘘じゃない。それでも、たった一本の聖水さえ買う事の出来ない者がこの国には溢れ返っている。聖水を買うくらいなら、多少汚れていても水を買う。ころ、と両の手で軽く転がし撫でた聖水は確か、父が取り寄せたという聖水だ。そう、法力国家シュレリッツから寄越したものだ。自分が覚えてないだけで、多発する発作の為にその国に赴いた事もあったと言う。それ以前から、聖水には非常に気を使っていたと言う。 「(確か、この聖水一本で金貨一枚くらいするんだっけか)」  空になって取り換えられた聖水と、手にしている聖水。確認できる三本の聖水で、計金貨三枚と言ったところか。高い、と素直に思った。幼い頃から裕福な生活をしているにしては、自分の金銭感覚はそれに見合っていない自覚はあった。父親の教育の現れだ。銅貨一枚の重さと、それに見合う食品や物、そしてそれを得る為にどれだけの苦労を成さねばならないのか。商人の息子だからこそ、幼い頃からそう言った類は厳しく教えられた。貧しい者が銅貨一枚を得る為に、どれだけの努力をせねばならないのか。そしてその努力によってやっと得た銅貨で買えるものは、あまりにもこの世には少ないと言う事も。この小さな聖水一本で、この世には救える命がどれだけあるのだろう。金貨一枚ともなると、相応の聖職者が作った物だ。と成れば、そんじょそこらの薬なんかよりも圧倒的に治癒効果が高いだろう。下手な回復魔法や法術よりも効果が期待できる。見習いの聖職者でも、この聖水を元に法術を使えば飛躍的に癒しの力を強化できるだろう。それを直接飲むというのは、なんという贅沢か。―――この聖水があれば、もしかしたらあの名も知らぬ少年を救えた、のかもしれない。腹を満たす事は出来なくても、聖水ならばその生命を力強く補強する事が。落札結果が出るのは、朝。あの少年は―――空になってしまった少年の身体を、自分は買ってしまった、のだろうか。そうでない事を、僅かばかりに願ってしまった。それを…名も知らない少年の遺体に、自分は。 「(何食わぬ顔で、聖水をかけるんだろうか、俺は)」  不死者(アンデット)化を防ぐ為にも、通常であれば必ず聖水を遺体に振りかける。しかし中にはそれさえ叶わない者が居る故に、不死者は存在する。この世には亡き者の為に捧げる聖水さえ手に入らない者も居れば、自分のように軽い発作で飲む者も居て。 「アキ?どうした?」  名を呼ばれて、思考を止めた。はっと小さく息を呑んでから顔を上げれば、変わらず心配そうな顔をしているユウマが見えた。少し間を置いてから、いや、と頭を横に振るった。昔から心配性な彼に、思わず口元が緩んだ。酷く迷ってから聖水をもう一口飲もうとして、止めた。きゅ、と少し強めに蓋をしめて、ユウマに押し渡した。 「…朝、起きてからまた飲む」  今はそれまで大人しく眠る事にしよう、とまともに返事を聞かずにベッドに身体を放った。引っ張り上げたシーツから、もぞ、と顔と腕を出して、ぼんやりとまた天井を見つめた。肌に触れるシーツは、屋敷にあるものと比べて品質が劣っているのが分かる。それでも、清潔だ。毎日この宿で働いている誰かが、客室のシーツを全て洗っているのだろう。宿はなによりも清潔さが重要視されるのだから。右手の手の甲を額に当てて、そんな事を考える。吸い込む空気は、聖水のお陰で酷く澄んでいる。勿体ないから仕舞え、と言ったら怒られるだろうか。結局口を噤めば、静かな月夜に沈黙が流れた。 「………なぁ、ユウマ」 「…なに?」  呼びかければ、静かな声が応えた。また静かな沈黙を挟んで、二呼吸。軽く指先を握りしめて、逃げるように視線を僅かばかりに逸らして。 「………お前、さ………暗殺奴隷、の……相場って、知ってるか?」 「…え…」  突然の言葉に、ユウマは自分の中で鼓動が一つ大きめに鳴り響いたのを感じた。確かに幼い頃の記憶は殆ど覚えていないし、曖昧だ。だけれど、その名をユウマが知らないはずがない。覚えていない訳がない、他の記憶は殆ど曖昧だと言うのに、それだけは覚えている程なのだから。忘れたくても、忘れられない。 「………いや…。ごめん、大体なら知ってるけど、流石にこの街の…今現在の相場、までは…」  いいや、忘れてはいけない事、だ。少し遅れて、だよな、と呟いた彼の声は何故だろう、何処か少し安堵したかのような声だった。今日の"揺り籠"の中に、居たのだろうか。そうであれば、もしかしたら落札した可能性はあるし、むしろそうでなければ危険だ。いくらで入札したのかと問おうとするも、問えるわけがなかった。言葉は空気に溶け、声は喉の奥に消えた。 「……いや、でも。俺も"揺り籠"に関しては…そりゃ嫌だけど、教わったはず、で」 「………アキ?」 「毎日って訳じゃねえけど、粗方の相場は定期的に調べて…んだけど…」  当たり前だ、彼は商人の息子であり…いいや、彼自身だって立派な商人なのだから。常に世の中の金の動きはチェックしているし、相場の変動だってちゃんと確認している。それは傍で護衛をしているユウマだって知っている事だ。それを確認する彼の声が、途端に薄くなっていく。 「…その時、咄嗟に出てこな……く、て…」  あれ、と額に当てていた掌を返して、くしゃりと前髪を掻いてから、軽く目元を擦った。聖水の効力で身体がリラックスしてきたのだろうか、青色の瞳が柔らかい微睡に誘われつつある。 「…あ…れ…。なんか、今考えても、出てこ、な…―――………」  すぅ、とそのまま青色の瞳は吸い込まれるように再び閉ざされた。その様子を見守りながら、一人眉を顰める。とりあえず、と言った様子で力の抜けて行った腕をシーツの奥にそっと仕舞い、顔色を確認する。有り得ないだろうと分かりながらも、ユウマは受け取ったばかりの聖水を月光に照らした。いくら聖水の効力だったとしても、寝入りがあまりにも早すぎる。それだけ疲労していた、という事だろうか。蓋を開けて匂いを嗅ぎ、少し迷ってから指先で縁を拭い取って舐める。有り得ないと分かっていたけれど、間違いなく聖水だ。顔色も良いし、頬に触れて体温を確認するけれど適温だ。熱くもなく、冷たい事だってない。 「(可笑しい。確かにアキは…そりゃ、数字には弱いし、勉強は出来るとは言えないけど)」  商人として数字に弱いというのは致命的だが、彼は彼なりにそれを努力でカバーするし、なにより交渉技術がある。勉強はお世辞にも出来るとは言えないし、記憶力も良いとは言えない。それでも相場などと言った毎日見ている物は、流石に覚えている。商売に関する事なら嫌々でも学んで覚えた事は、ずっと傍に居る自分が一番良く知っている。 「(今のアキの言葉を聞く限り、まるで暗殺奴隷の相場だけ記憶から抜け落ちてるみたいな、)」  その思考を遮ったのは、動きに合わせて身を揺らしていた聖水が反射した月光だ。チカ、と暗闇に目が慣れていたユウマにとって、その光は少し眩しかった。少し遅れて聖水の蓋をしめて、近くのテーブルに置いた。コト、と静かな音が部屋に響いては転がり…いいや、と首を横に振るった。 「(それよりも今回の"揺り籠"の中に暗殺奴隷が居たのなら、そっちの方が問題だ)」  仮に落札出来ていたとしても、取り扱いには十分に注意が必要だろう。そして、それ以上に。気になる点はいくつかあるが、それを今は振り払ってユウマ―――ミフェリオはテーブルの上に紙とペンを引っ張り出した。外に居るウィルオンは恐らく、少年ら二人を気遣って今の会話を聞こうとしていなかったはずだ。 「(ただの闘技奴隷ならまだしも、暗殺奴隷じゃ話は別だ。迂闊だった、この手の競売はカタログなんて親切なものある訳がない)」  実際に会場に入って見てみないと、分からないタイプだ。やっぱり"揺り籠"の競売は嫌いだ。こうして無事に戻ってきてくれたから良かったものの、万一があったらと考えると恐怖しか感じない。ただ一単語。なんでもない紙にその商品名を記したそれを雑に切り離した瞬間、ミフェリオは扉越しに気配でウィルに呼びかけた。 「(商品がアキの傍に来る前に絶対に確認すべきは―――出品者!)」  刹那、ヒュ、と何処からか吹き抜けてきた風がミフェリオの頬を撫でると、持ち上げたその指先から切り離したメモは無くなっていた。おっと、と何処か少し困ったようなウィルオンの声が、遠く離れた所から聞こえた気がした。
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